ダイアナの馬

 一

 

 二度つゞけて土曜日が雨だつた。――三木は、雨だつてむしろ出かけたかつたが、青木からの誘ひの手紙に――よく晴れたこの次の土曜日を待つ――といふ念がおしてあるので、二度の日曜日をつゞけて全く孤独の安息で暮した後だつたせいか、今朝起きて、麗らかな空を見出した時には、思はず、
「やあ、愉快だな!」
 と、中学生の遠足の日の朝の心地を思ひ出しながら、つぶやいた。「それに、月曜日は祭日ではあるし……」
「久し振りに、青木さんとゆつくりお話が出来て結構なこと!」
 妹がうらやましさうに、そんなことをいつた。
「どつちの青木……?」
 三木は、いふまでもなく兄の青木と、そして三木の妹は、青木の妹の雪子とそれ/″\学生時代からの親しい友達であつた。
「だつて兄さん、そんなことをいつたつて、雪子さんと二人だけで話なんて出来る?」
「…………」
 三木は、妹にそんなことをいはれて、そのやうな光景を想像すると、胸苦しいほどの切ない嬉しさに打たれるだけだつた。
 明るい芝原の丘があつた――魚の泳いでゐるのが手にとる如くうかゞへるすみ渡つた小川が流れてゐる――蜜柑の山が翼をひろげて小さな村を胸のうちに抱いてゐる――もう、蜜柑が大分色づいた頃に違ひない――あの綺麗な蜜柑畑の丘へ昇つて行きながら、途中で振り返ると和やかな青い海原が池のやうに見降せる……。
 三木は、青木の村を思ふと屹度蜜柑の季節が浮かびあがる――自分だけ馬に乗つて丘を昇つて行く先頭の雪子が、馬の背から腕を伸して蜜柑をもぎとつた。酸性の香気に鼻をつかれた! そんな極めて瑣細な印象が事更に鮮やかに三木の記憶に残つてゐる。
「おう! 酸ツぱい!」
 雪子は仰山に両肩をすぼませて悲鳴をあげたかと思ふと、とても滑稽な表情をしてチラと後ろを振り返つた――その刹那の彼女の顔が、はつきりと三木の印象に残つてゐる。
「馬鹿だな、喰べたのか、お前は!」
 青木が三木の背後から妹に呼びかけた。が、雪子は急に馬の脚並を速めて丘の頂上へ駆けてゐたので、背後の声は聞えなかつた。

 間もなく雪子は、赤松の下に小さな祠のある丘の頂上に達すると、馬から飛び降りて、
「三木さんにも、あげるわ。うまく受けとつて御覧なさい。」
 といつたかと思ふと、青黄色い蜜柑を一つ三木をめがけて高く悠やかに投げた。三木は、それを歩きながら片手でうまく受けとつた。
「喰べて御覧な。」
 青木が傍らから、
「駄目だよ、喰べられるものか。」
 と注意したが、三木は、関はず、皮をむいた。
「雪子は意地悪なんだよ。だまして、そんなものを他人に喰べさせて、酸ツぱがる顔を見ようとしてゐるんだよ。止せ/\。そんな青い蜜柑が喰べられるものか――あゝ俺は見たゞけでも歯が浮いてたまらない。」
 青木は更に、そんな風にさへぎつてゐたが、三木は、
「平気だ。」
 といつて、いきなり口のなかへほうり込んだ。

 

     二

 

 三木は、蜜柑の酸さに身ぶるひして、
「これは驚いた!」
 ペツ! と、思はずほき出した。向方を見ると雪子が手を打つて笑つてゐた。
「ね、三木さん、あたしをつかまへて御覧なさいな。若し、つかまへたら、あたしの頬ツぺたを一つぎゆツとつねつても好いわ。そんな酸つぱい蜜柑を瞞して食べさせた罰として――」
「だつて、雪さんは馬に乗つて逃げ出すんだらう。それぢや、到底つかまる筈がありはしない。」
「そんなら、ドリアン(青木家の馬)を、あなたに貸してあげても好いわ、乗れる?」
「乗れる――」
 と三木は返事してしまつた。彼は、生来馬をあまり好まぬ質だつたが、ドリアンなら大丈夫だらうと思つた。だが、それには余程の決心が必要だつた。
 長閑な小春日和の野山である――酸つぱい蜜柑――戯れ――娘の頬をつねるといふ(決して、つねつたりするものか――その時は、その代りにその頬に接吻をしてもかまはぬであらう)目的で、勇敢なる青年が駿馬に打ちまたがつて、可憐な娘を追ひかけて行く――。
 三木は、そんな戯れな情景が、何だかお伽噺か神話にでもあるやうな事件に思へたりして、酷く愉快になつたのである。
 こんなに思つて見直すと、真上の丘の頂きに立つて、ドリアンのくつわをとりながら、此方に向つて呼びかけてゐる派手な黄色のジヤムパアを羽織つた靴下もはかぬ素足の靴で、そして短い乱脈な髪の毛が陽に映えてゐる様子の雪子の姿は、そのまゝ神話のヒロインでゝもあるかのやうに――空想家の三木の眼にうつつた。
「そいつは面白い。三木がドリアンに乗るのは愉快だ。おれが審判官にならう。」
 と青木も賛成した。
 三木は、両脚がかすかにふるへてゐるのに気づいた。彼は、常々どんな馬にも近寄れぬ質であつた。そのギヨロリとした大きな眼玉やたくましい鼻腔のフイゴのやうな息づかひ――などにたま/\接近して見ると、化物でも見たかのやうな無性なをのゝきに襲はれるのが常だつた。
 そんな恐れと、娘のふくよかな頬の魅力と、そして薄ら甘いメルヘン気分の陶酔とが、しばらくの間眼の先で火花を散らしてゐたが、
「ぢや、ドリアンはこゝにおき放しにして行くわよ。こちらは自分の脚で逃げるんだから、余程先にスタートさせてもらはなければかなはないわ。」

 雪子の声で、三木は改めて丘の上を振り仰ぐと、もうジヤムパアを脱ぎ捨てゝゐる娘の露はな腕と健やかな脚が、まぶしく映つた。――三木には、娘の姿が、侍女に上着や靴や弓矢をあづけて水浴のために谷間に降りて行く森の女神ダイアナの姿に映つた。ダイアナは、若者アクテオンが、その様子を眺めたのを、己れの処女性のために憤激のあまり甕の水を投げつけると、
「ダイアナの裸身を見たと、告げられるものなら人に告げて見よ。」
 と叫んで、パンフアガス、ドシウス、シイロン等と称ぶ護衛の犬を若者に向けて飛びつかせた。
 何故か、三木には、そんな怖ろしい神話が不図思ひ出された。

 

     三

 

 三木が丘の上に駆けあがつた時には、もう雪子の姿は見えなかつた。ドリアンが祠の前で草を食べてゐた。
「大変な競技がはじまつたものだな。俺は一体何方に味方したら好いんだらう。……が、まあ兎も角大いそぎで追ひかけないと、逃げ手は君、この山ぢうの路なら何んな草蔭の兎の道だつて弁へてゐるほどのラウデンデライン(森の娘)なんだから、都から来た猟人は忽ちのうちに見失つてしまふぜ。――俺は、こゝで、見晴してゐることにしようよ、この世にも不思議な競走を……」
 青木は、からかふやうな調子でそんなことをいひながら、ドリアンに近寄れないで変な身構へで立竦んでゐる三木のためにその轡をとつた。
 三木は、腕で額の汗を拭ひ、上着を脱ぎ棄てると、眼をつむつて馬上の人となつた。そして彼は、胸の底で、
「死んでも関はない。アクテオンのやうに――」
 と覚悟した。
「君は、そのまゝ逆ふことなしに乗つてさへゐればドリアンは、自分から進んで女主人の後を追うて行くに違ひないから、君はたゞ落ちないことだけに注意してゐれば好いだらうさ。」
 青木は、そんな注意も与へた。
「いや、ドリアンなら自信があるよ。平気だ。この分では、全速力を出しても俺は立派な騎手がつとまりさうだよ。」
 三木は、観念した後に、そんな自慢をいつて、即座に出発しようと手綱を振つたが、ドリアンは一向歩き出しもしないのであつた。木馬のやうに行手を眺めたまゝ、凝ツと立ちどまつてゐるだけだつた。
「ドウ、ドウ!」
 三木は、威厳を含めた太い声で唸つたが更に利目はなかつた――三木は、焦れて、馬の腹を蹴つた。が、ドリアンは鈍い眼ばたきをしたゞけでなほも動かなかつた。
「まるで銅像のやうだ。君の顔も、そんな風に武張つたところは、仲々強さうに見えるな、たしかに軍人だぞ。」
 青木が笑つたが、三木は聞えぬ風をして切《しき》りにスタートをあせつてゐるのであつたが、まるでドリアンは真の銅像に化したかのやうに動かなかつた。
「何うしたんだらう。ドリアンは気分でも悪いのかしら?」
 三木は、困惑の色を露はにして情なささうに青木に訊ねた。

「女主人の口笛を聞かなければ動き出さないのだらう。ともかくドリアンは、雪子には、他人には想像しがたい範囲で慣れてゐるんだから、その眼前に主人がゐなくても、やはり主人の命を待つてゐるといふほどの忠実な馬なんだよ。」
「困つたな!」
 三木は思はず歎息を洩して空を仰いだ。と、もう向方の小山のあたりへまでも達した時分である筈の雪子は、直ぐ傍らの樹蔭に隠れてゐたのであつた。彼女は、三木に気づかれぬやうに息を殺して、そちらを目がけて堅い蜜柑を力一杯投げつけた。それはドリアンの胴腹にあたつた。――すると馬は軽いいななきをあげて、矢庭に丘を駆け降りはじめた。三木は、がくりとして思はずドリアンのたてがみ[#「たてがみ」に傍点]にしがみついた。

 

     四

 

 ドリアンは、悠やかなうねりを持つた坂道を、下の桑畑までまつしぐらに駆け降りた。そして煙草畑の端を大きく迂回した。
 三木は、さつぱりわけがわからなかつた。まるで疾走中に運転手が滑り落ちてしまつた機関車にでも乗つてゐるかのやうな怖ろしい不安に戦きながら、ドリアンの背中に吸ひついてゐた。
 だが三木は、丘の上で眺めてゐる青木は、おれが雪子の姿を見出して、それを追ひかけてゐる――と思ひ、更に、仲々大胆な騎手だ! と感歎してゐるだらう――などといふ勝手な得意さを抱いたりしてゐた。
 それにしても、何と速かに走るドリアンであることよ、若しや気でも狂ふたのではなからうか?
「――と、すると、おれは救ひを呼ばなければならないが……」
 それとも行手に雪子の姿が現れてゐるのかな? そんなら、この勢ひでは忽ち追ひついてしまふだらう――三木は、かうも思つて怖る怖るたてがみ[#「たてがみ」に傍点]の間から前方をすかして見たが、雪子の姿どころか、煙草畑が荒れ狂ふ濤のやうに映るだけで、探し索める隙などは決して得られぬ。
 ドリアンが駆ける以上雪子はその行手に居るに違ひないのだ、間もなく追ひつくであらう……。
 三木は、かう確信して、ドリアンの駆けるがまゝに任せて、自分は息を殺してその背中に吸ひついてゐた。そして、怖れを忘れるために、雪子に追ひついた時の幸福感ばかりを仔細に想像した。――あたりは一面の煙草畑であつた。丈よりも高い煙草の幹は、団扇のやうな葉を拡げてゐるから、若しこの辺で雪子をつかまへることが出来たら、その頬に熱い接吻を寄せたにしても、丘の上の審判官に見つかることもないだらう。雪子は、それを何んな風に享けるであらうか?
 三木は、たてがみ[#「たてがみ」に傍点]の中に顔を埋めて、雪子との結婚を空想した。――ドリアンは煙草畑を一周すると再び丘へ向つて、昇りはじめてゐた。
 丘の上から口笛の音が鳴り渡つてゐた。不図ドリアンが坂の中途で脚を止めた。
「三木さん――」
 雪子の声で三木が顔をあげて見ると、はじめの丘の上に青木と並んで、ちやんと雪子が立つてゐた。そして、二人は、さも/\気の毒さうに微笑んでゐた。
「何時の間にか、そんなところに戻つてゐたな。よし、今行つてつかまへてやるよ。」
 三木は虚勢を示した。
「あたし、はじめからこゝにゐて、ドリアンに合図をしてゐたのよ。こゝから下まで充分声がとゞくから、ドリアンは全くあたしの自由だつたのよ。気がつかなかつたの、三木さんは?」
 三木は無念だつたが何うすることも出来ずあかくなり、そのまゝ丘の上まで進まうとすると、またドリアンは彼の手綱では動かないのだ。――と雪子が、口笛を鳴らし、手まねきを示すと、ドリアンは一ト息に駆けあがつた。

「あゝ、喉が乾いた。蜜柑を食べてやれ。」
 三木は、つまらなさうに呟き、酸つぱい蜜柑を我むしやらに頬ばつた。

 

     五

 

 今年も、もう蜜柑の季節であつた。三木は、一年前の、あの時の、あんな愚かし気な事件を思ひ出して、苦笑した。
 二時間あまりの汽車で行かれるほどの近くにゐながら、どうして一年も訪れなかつたのだらう――雪子は、ちよい/\上京して此方の妹を訪れてゐるさうだが、自分はいつも勤めに出てゐる留守中で、考へて見ると、あのドリアン騒ぎ以来一度も会つてゐないのだ……。
 さう思ふと三木には、あの時ダイアナを連想した雪子の、その他の姿は想像することも出来なかつた。あの荒々しく颯爽たる雪子の印象だけが、写真のやうにはつきり残つてゐた。
 この頃三木は馬に相当の自信を持つことが出来た。あの時の失敗で彼は奮起して、東京に戻るがいなや郊外の乗馬倶楽部に入会して相当の練習を経てゐたから、それも青木達に誇りたかつた。
 三木は時計ばかりを気にしながら漸く一日の会社務めを終へて、汽車に乗つた。N駅に着く三十分も前に完全に日が暮れて、夜釣り漁火が窓から眺められた。
 N駅には青木が待つてゐた。青木は三木の顔を見ると同時に、
「雪子の奴は、夕方までに帰るといつて東京に出かけたのにまだ帰らない。あいつはこの頃おしやれで仕方がないよ。」といつた。
「ぢや、停車場の前で次の汽車を待たう。」
「ドリアンをこの頃は馬車馬にしてしまつてね、今も彼処に伴れて来てゐるよ。」
 青木か指差した方を三木が見ると、軽さうな二輪車に、ドリアンがおとなしくつながれてゐた。――此処から青木の村までは、小川に沿うた寂しい街道をおよそ三哩もさかのぼらなければならなかつた。
 二人は駅前のカフエーで、雪子を待つことにした。彼等は、互がしばらく会はぬ間に相当の飲酒家になつてゐることを笑ひながら、洋酒のグラスを挙げた。三木は、小説作家である青木の近頃の作品を様々な方面から賞揚した。
「ドリアンを売るといふ話があつたが、あれはほんたうなのか?」
「無論ほんたうなんだ。ところがね、新しい飼主のところから彼女は、何時の間にか雪子の許に戻つて来てしまふんだよ。飼主が怒つて、破談を申込んで来たのだけれど……」
「その買手は、村長の息子か?」
「うむ、雪子が最も嫌つてゐる……」
 といひかけて何故か青木は、その話頭を転じてしまつた。――。

「俺も近いうちに東京へ移りたいと思つてゐるよ。そして、雪子と二人で小さな家でも借りて学生々活の続き見たいな生活に入らなければ居られなくなるかも知れないのだ。」
「それあ反対だ。」
 と三木は叫んだ。「君の仕事は是非この田舎で相当のところまで完成して欲しいな。」
「さうかね。」
 青木は何時も素直であつた。
「俺は、何処だつて関はないが、雪子が……」
 その時次の汽車が到着したので二人は会話を中断して、外へ出た。――と何時の間にか青木は、思ひの外酔つてゐて、三木の肩に支へられでもしないと脚もとが怪しいほどであつた。三木は感傷的な声を挙げて、
「青木、どうしたんだい。しつかりしろよ!」
 などゝ口走つた。

 

     六

 

 ドリアンの売買についての挿話――村長の息子のうはさ――青木の沈んだ表情……。
 三木は、それ等のことで、雪子の身辺に不幸な結婚談が起つてゐるのだらう――と想像したが、青木が、それについては決して積極的に語らうとしないので、三木も遠慮した。
 改札口の傍らに立つて二人は雪子の出て来るのを待つた。
「夜になるとバスもタキシーもなくなるので、俺は何時の時でも斯うして妹を迎へに来なければならないんだよ。」
「此処から君の村までの道は、然し、馬車でドライヴするのが最も適当な感じだな、あの景色の中を馬車でのろ/\と往復するのは至極ロマン的で、何時も俺は、それが此処に来ての楽しみの一つだよ。」
「常習者にはさつぱり面白くもないが……」
 青木はいひかけて、
「何だ、厭にのろ/\とやつて来るぢやないか、おい、雪子!」
 と声をかけた。
 すると改札口の四五間先の処で、純白の半オーバを着た、歩き振りの極めてスマートな婦人が、青木の声に応じて腕をあげながら駆けよつて来た。
 三木は、眼近くなつても、それが雪子とは思へぬ程であつた。この洋装の婦人なら、列車を降りて来る時から気づいてゐたが――
「しばらく……」
 雪子は、こゝろもち顔をあからめて三木に挨拶した。
「すつかり見違へてしまつた!」
 三木は、雪子の念入りにブラツシをあてられた睫毛が濡れたやうに沾んでゐるのを見た。西洋風の淡白の化粧が、淡白に見ゆるがために却つて技巧的な念が施されてゐるのを見た。外套の襟から窺はれる露はな胸に、粋な誕生石の胸飾りが見えた。
 三木は、雪子がこんな立派な婦人になつてゐたのも知らずに、あんな子供らしい追想に耽り、また今日も訪れたならば、いつかのやうに野山へ出かけて共々に飛び廻らう――などゝ思つてゐた自分の考へが、とても無礼なことに思はれた。

 どうして/\、これでは、とても頬などに指先だつて触れることは出来ない――そんなことを三木は突差の間に思ふと、突然奇妙な嫉妬感に襲はれた。
「俺は変に酔つてしまつたよ。家へ帰つてから、ゆつくり話すことにして、それまで馬車の中で眠るぜ。」
 青木は、さういふと毛布をかむつて馬車の後ろの席にごろりと横になつてしまつた。
「チエツ!」
 雪子は舌を鳴した。「気どつたまゝ帰らうと思つたら、御者にさせられるのか! 三木さんはこの頃馬は慣れて?」
「去年だつたかしら――雪子さんの為に酷い目に会つたのは――あれから、口惜しまぎれに乗馬倶楽部などに入つたので、少くとも馬に対する恐怖だけはなくなつた。」
「ぢや御者になつてね。」
「鞭はシートの下に入つてゐる?」
「鞭なんぞ使つてはいけないのよ。――可哀さうぢやないの、ドリアンが――。そんなら鞭の役目で、あたしも御者台に並ぶわ。」
 三木が手綱をとつた傍らに雪子が並び、靴の先で軽く雪子が床を打つと、馬車は速かに動き出した。

 

     七

 

 伴れてつても伴れてつてもドリアンは村長の厩から逃げ出してしまふといふ話ではないか、その話を聞いて自分は何だか酷く愉快だつた――三木が、その話をすると雪子は、いきなり、
「それはね、あたしの結婚のことなのよ。」
 と如何にも不平さうに呟いた。
 三木は、想像してゐたことだつたから左程驚きもしなかつた筈なのだが、
「結婚だつて!」
 と思はず訊ね返した自分の声が酷く慌てゝ調子高であつたのに気づいた。
 馬車は月夜の街道を適度の速さで、小川に沿うて進んでゐた。――時々二三人伴れの若者に出遇ふと大概向方から、
「今、お帰りですか、お嬢さん。」
 などゝ声をかけた。
「えゝ、村長の息子なんだけれど――とても、それが、あたしの一番嫌ひな――といふより一番軽蔑してゐる古い型の不良青年なのよ。」
 雪子の話によると、青木の亡父時代の村長家との共同事業のための負債が残つてゐるのださうであつた。そして雪子が縁談を断ると、そんな負債に関することで様々な恩を着せるのであつた。
「あたし、あまり馬鹿々々しいんで、少々意地悪になつてやつたのよ。で――そんな御恩があるんならお断りするわけにはゆきませんわね、たゞあたしは未だ自分にはそんな話は早いと考へてお断りしてゐたゞけなんですけれど――あたしは、そんなことをいつて息子の顔を凝つと見てやつたのよ。そしたらね、息子の奴ツたら、とても真面目な顔をして――(僕と君の間で――)だつて! 何が、僕と君だ! とあたしは疳癪を怺へて神妙にしてゐると――(そんな水臭い話は必要ないでせう)――なんて、済して弁士の声色見たいなことをいふのよ。あたし噴き出したくなるのを、やつとこらへてゐたけれど……。さう/\丁度、この辺のところだつたわ、矢ツ張りあたしがあの汽車で東京から帰つて来ると、何うして知つたのか聞きもしなかつたけれど、息子はドリアンの馬車でちやんと迎へに来てゐたの――。……その時、もう少しで彼奴にキツスされてしまふところだつたわよ。」
「キツスだつて! そして、何うして逃れたの?」
 三木は胸をふるはせて問ひ返した。
「それがね、ハズミつて随分怖ろしいものだわ、あんまりその偶然の出来事があざやか過ぎて芝居見たいだけれど……息子は前後のわきまへもなく一途に昂奮してゐたらしく、矢庭にあたしの胸にのしかゝつて来たのよ、つまり、この座席で斯うしてゐて――その時あたしが突然後ろにさつと身を引くと、その途端、男がワツ! と叫んだかと思ふと、あたしの胸の先を素通りして、そこの……」
 雪子は傍らの流れを指ざして、

「川の中へ、真ツさかさまに飛び込んでしまつたぢやないの! バツシヤンと、暗闇の中にとても凄まじい水音をたゝ――」
 といひ終ると、ヒユウツと口笛を鳴らして馬車の速度を速めた。
 三木は、光りにすかして車の傍らを見降すと、真に轍の真下が月の光りにキラ/\と光つてゐる相当の探さを持つらしい小川であつた。

 

     八

 

 全速力かと思はれるほどの速さで馬車は小川のふちを駆けてゐた。
「この倍もの速力で、あたしは後ろも見ずに逃げ出したわ。」
 雪子の話によると、それから間もなく弁護士や執達吏などが繁々と青木家の門を出入するやうになつた。
 ある日|伯楽《ばくらう》のやうな男が二人づれで、青木家の厩の前で切りにドリアンの品定めをしてゐるので、雪子は不快に思つて訊ねると、
「あんたは御存知ないんですか、ドリアンを受とりに来たんですよ、村長さんの御いひつけで――」
 と空々しくいひ放つた。
「ぢや、村長の家に、ドリアンは買はれたといふわけね。」
「勿論ですよ。」
「誰から買つたの?」
「お嬢さんは呑気ですな。誰からも何もあつたわけのものぢやありませんよ。つまり、あなたのお父さんからさ、ハツハツハ……買つたといふよりは、つまり貸金の利息の、ほんの申しわけに――といふ位のところさ。」
「勝手にするが好いわ。」
 雪子は憤《む》つとして、自分の部屋に引きあげて、窓から様子を見てゐた。
 伯楽が、ドリアンの手綱を引いて門を出て行かうとした時雪子は、吾を忘れて、常々から、ドリアンにだけ通じる意味の最も鋭い口笛を鳴した。――すると、ドリアンは、気たゝましい叫びを発して、突然後ろ脚で立ちあがつた。それを見た伯楽は眼の色をかへて、暴れ馬を取りおさへにかゝつたが、馬のたゞならぬ気合におそれをなして(馬は二人の男に蹄をあげて飛びかゝりさうな勢ひを示した。そして、あべこべに伯楽に向つて追ひかけさうになつた。)一目散に遁走してしまつた。
 が、翌朝雪子が厩に行つて見るとドリアンの姿が見えないのである。しかし雪子は、自信があつたから、落着いて、珍しく乗馬服に身をかためた上で、鞭の先で長靴をたゝきながら散歩に出かけて見た。雪子はむしろ今度は愉快であつた。
 街道に出て不図行手を見ると、村長と息子が馬車に乗つて朝霧を衝いて走つてゐた。後ろ姿であるが雪子には、一ト目でそれがドリアンであることも解つた。雪子は靴音を忍ばせて馬車の後を追つた。
 村長と息子は仲睦まじく肩を並べて隣町の方へ赴くらしかつた。

「村長さん、お早う――」
 雪子はかう背後から声をかけた。同時に馬車はピタリと止つた。
「雪さん!」
 村長と息子は同時に、雪子に同乗をすゝめた。何も彼も知らぬ気な素振りで――。
「あんたに是非買つてあげたいものがあるんだがな、一緒に乗つて町へ行かないかね。」
「お父さんがね、君に指輪と首飾りを買つてやらうといふんだよ。実は、それを買ふために今朝二人で出かけたところなんだよ。恰度好いから一緒に行かう。」
 村長と息子はこも/″\甘言を用ひて雪子の同行をすゝめるのであつた。
「この間の晩のダイビングは面白かつた?」
 あまり息子の態度が白々しいので雪子は、斯んなことでも訊いてやらうかしら――などゝ思つた。

 

     九

 

 ――しかし雪子は、いふまでもなく同行を辞退した。
「ちよつとそこまで散歩に出るといつて来たのですから――それに斯んな格好で来ましたのは、川向ひの親類へ行つて馬を借りて来るつもりでしたの、ドリアンなんて、あたしもう飽きてしまつたから、今度は叔父さんのうちの……」
 雪子は、皮肉をいつてゐるつもりだつた。そして、出来るだけ恬淡さを装うた明るい微笑で述べてゐたのであるが、
「ドリアンなんて、もう――」などゝいつて見ると、急に堪まらない悲しさが込みあげて来て喉がつまつた。
「さよなら――」とだけいひ棄てると慌てゝ踵を回らして後戻りした。暫くの間、半ば無意識で駆けてゐたが、背後から切りと、
「おーい、雪さん、待つて呉れ。」
「こつちはお前については行かれないんだよ。他に急ぎの用だつてあるんだよ――」
「ドリアンの向きを換へて呉れ! 困るぢやないか、おーい、おーい!」
 などゝ叫ぶ声がするので、振り返つて見ると、村長と息子を乗せたまゝドリアンはちやんと馬車の方向をこつちに換へて、雪子が歩めば歩み、駆ければ駆けながら従順について来るのであつた。
 雪子は、悲しさと嬉しさに胸が一杯だつた。ドリアンだけならば、ドリアンの顔にとりすがつて泣きたかつた。――と、雪子の頬には止め度もない涙がこぼれ出してゐた。――雪子は一散に駆け出した。
 馬車も一散に駆け出した。
「おーい、待つてくれ……」
「飛び降りるから、ちよつと止めて呉れ。」
「汽車の時間におくれてしまふんだよウ。」
「危い/\、そんなに走られては堪まらない。――雪さアん、救《たす》けて呉れえ!」
 馬車の上では村長と息子が、半狂乱の態で、伸びあがつたり、尻もちをついたりしながら、夢中で雪子を呼び返してゐたが、雪子は益々全速力で駆け続けずには居られなかつた。

 静かな朝の街道に巻き起つた騒ぎを、野良の人々は丘の段々畑から見降して、村長父子が、雪子を手籠めにしようとして追跡してゐるのか? と見誤つた。そして、二三の若者は直ぐに青木家に注進した。
 鎮守の森を曲つて青木家の見ゆる橋の袂で雪子は、三人の若者と一緒に駆けつけて来た兄に出合つた。村長の馬車も直ぐと雪子の背後で止まつた。
 帽子なども途中で吹き飛ばされてしまつた村長は、激しい息切れで座席に突ツ伏したまゝ蟇のやうに丸い背中を伸縮させてゐるだけだつた。息子は、何と説明したら好いか? と当惑してゐるらしく、馬車から降りると暫くの間ぼんやりと空を仰いでゐたが、傍らの筧に気づくと、父親を救け降して水をすゝめた。
 誰も彼も無言であつた。
 雪子も、すつかり当惑してしまつて、説明の仕様もなくなつたので、そのまゝ吾家を目指して慌てゝ駆け出すと、ドリアンは正しく娘の影の如く従順に、空馬車の輪をガラ/\と音立てゝ、追つて行つた。
 それ以来村長家では、ドリアンの横領は断念したらしかつたが――。

 

     十

 

 そんな、滑稽味の多分に含まれた騒動の話を三木は、月あかりの夜道をごろ/\と呑気な音をたてゝ進んで行く馬車の上で雪子から聞かされたが、一向笑へなかつた。
「そのまゝ、この車と一緒にドリアンはあたしのものに帰つたのだけれど――この馬車は村長の家のものなのよ。馬車だけを引いて帰るのも具合が悪いと思つて、それツきり取返しにも来ないのよ。――その時、もう一つとても可笑しいことがあつたのよ。……これぢや仕方がないから一先づドリアンだけは返しておかう――と村長がいふので、あたし達はドリアンを馬車から脱して、ぢやどうぞ車をお持ち帰り下さい――といふと、(よし、ぢや僕が引つぱつて行く。)息子がさういつて、馬をつなぐ筈のところの梶棒を持ちあげたぢやないの、ところが、ひとりで、いくら力持ちだつて人間が馬の代りなんて出来はしない! 持ちあがりもしないぢやないの。(そんなら二人がゝりで引いて行かう。)と村長も業腹になつて、息子と片々宛で梶棒を持つて、引き出さうとしたんだけれど、到底駄目さ。――ハツハツハ……皆なで思はず笑ひ出してしまつたわ。するとね、村長父子は自尊心を傷けられたと見えて、真ツ赤になつて(今に見てゐろ、屹度ドリアン諸共取返して見せるから――。)と物凄い捨科白を残して引きあげたのよ。その時、あたしには聞えなかつたけれど(馬車と一緒に雪子も伴れて行くからそのつもりでゐるがいゝ!)なんていつてゐたんですツて……」
 雪子は堪まらなく可笑しさうに思ひ出し笑ひを繰返してゐたが、三木は、凝ツとドリアンの蹄の音に耳を傾けたまゝ、感歎に堪へぬが如き神妙な調子で、
「雪さんとドリアンは恰度ダイアナとその護衛卒のやうなものだ。」と唸つた。
「冗談ぢやない。……だけど、あたしが若し何処かへお嫁に行くとしたら何うしたつてドリアンはお伴になるだらうと思ふと……」
「とても都会生活は出来ないな。」
 三木は、寂しさうな声で呟いた。
「さうよ、ドリアンがゐなければ、あたし明日からでも東京へ行きたいわ。遊びに行っても[#「行っても」はママ]、直ぐに斯うやつて帰つて来るのはドリアンが気になるからなの……」
 三木は、胸のうちで呟いたつもりだつたのが不図口の先に浮んでゐた。
「ダイアナの護衛卒は、ダイアナの永遠の処女性を護るために……」
「え?」
「告げ得られるものなれば他人に告げて見よ、ダイアナの裸身を見たと――そんな言葉を思ひ出したんだけれど。」
「何うしたの、三木さん――。それ、芝居の科白なの?」
「ドリアンがゐる以上は、誰も雪さんを誘惑することは出来ないのか! と思つたら僕は何だか、とても愉快になつたよ、たつた今! 痛快なことぢやないか。」
 三木は、突然そんなことを大きな声でいひ放つと、
「飛ばさう/\!」

 といつて手綱を強く振つた。
「お嫁にゆくんなら厩のあるうちでなければならない。厩のあるのは村長の家より他はない。」
 雪子は、ふざけた歌でも歌ふやうにそんなことをいつた。

 

     十一

 

「一体俺は何うしたら好いんだらう。雪子のことを思ふと憂鬱にならずには居られない。」
 村にかうして愚図々々してゐれば結局雪子は村長家へ行かなければならなくなるかも知れない、雪子はドリアンに対してはそれ程の犠牲心位は持つてゐる……。
「が、それでは雪子が憐れ過ぎる。」
 麗らかな朝の陽を浴びながら三木と青木が蜜柑山へ散歩に出かける途中で、青木は変な苦笑を浮かべながら首を傾げた。
 丘は一帯に漸く色づきかゝつた蜜柑の樹に覆はれてゐた。三木は、一年前に訪れた時の風景とあたりが全く同じ色彩に映えてゐるのを深くなつかしんでゐた。
 三木は、青木のそれらの憂慮に対して何んな言葉を応へたら好いのか途方に暮れながら、それとなく腕を伸して蜜柑の実をもぎとつたりした。――三木は、厩のあるやうな家を自分が持てるか知ら? と思つたり、そんなことを考へる自分の勝手なケチな空想を嘲笑つたりしながらも、何うかして厩のある家を得たいものだ――などゝ夢見た。
「これは、あんまり馬鹿々々しい心配で他人には話せないんだが、どうも雪子の心持がはつきり俺には解つてゐるので、とても閉口するんだよ。」
「馬鹿々々しいどころか、深刻な事件ぢやないか。」
 三木は、吾を忘れて苦い蜜柑をかんだ。
「俺は、雪子が何うしても他国へ行かなければならないことになつて、いざ出立といふ場面を考へると、恰でギリシヤ劇にでもありさうな悲壮な情景が浮んで来るのだよ。」
 いひかけて青木は、深く呼吸を呑んだ。
 ……汽車の窓から雪子が半身を乗り出してゐる、汽車路に添つた街道を裸身のドリアンが駆けてゐる、汽車の速度に伴れてドリアンの速力も次第に速くなる……車輪の響と蹄の音と……。
「ドリアンは倒れるまで駆け続けるだらう……ドリアンが昏倒する様を妹は窓から認めるであらう……その時お前は、次の停車場で汽車を降りるか? と俺は、その話になると雪子に訊ねるのだ。無論降りる――と雪子は答へる――それで吾々の一身上に就いての相談は何も彼も頓挫してしまふのが常例なんだよ。想像でなくつてそれと同じ事件が、つい一ト月前にも起つた。昏倒したドリアンは雪子に介抱されると忽ち蘇生してしまつた……雪子はとう/\恋愛も犠牲にして、以来ドリアンと暮してゐる。」
「恋愛事件があつたの?」
「犠牲に出来るほどのものなんだから、プラトニツクなんだけれど……」
「恋人に会ひに行くために出立したんだね。」

「うむ、ところがドリアンが何うしても離れないんだ。逃げるやうにして出かけても雪子も雪子で、夜になると帰らずには居られない――何とも因果なことだよ。」
「恋人の名前は?」
 三木はせき込んで青木の眼を瞶めた。
「…………」
「その幸福な男といふのは?」
「幸福と思ふか、君は?」
 青木は熱い手で三木の手を執つて悲しさうに唸つた。「幸福と思へるんなら、馬位ゐのことであきらめてしまはれる位ゐに淡いプラトニツクの相手の名前を、君が、君自身と想像することは自由だよ。」

 

     十二

 

「俺達が自分達の話ばかりしてゐるので、雪さんは機嫌でも損じて何処かへ出かけてしまつたのだらうか、朝から見えないが――」
「いや、あいつは親爺が死んだ時でも天気さへ好ければドリアンを乗り廻して来ずには居られないといふほどの奴なんだよ。加《おま》けに競馬が近づいたので此頃ぢや晩まで競馬場で暮してゐる。」
「自分が騎手にでもなつて出るの――」
「競馬にはドリアンなんて出すわけではないが、練習の間だけは――。この山を越すと競馬場だから行つて見ようか。」
「よし、俺も馬を借りて、雪さんと競走でもして見よう。」
「それこそ、到底敵ふ筈はない。――騎手の連中でさへ彼奴には恐れてゐる位なんだから……」
 青木と三木は、主に雪子とドリアンを話題にしながら丘を越えて行つた。――後から青木の名を呼ぶ者があつたので、見ると、馬を伴れた村長の息子だつた。
「ドリアンの代りに、今度これを買つたんだよ。毎日馬場に練習に来てゐるんだが、ドリアンなんて敵ぢやないぜ。雪さんなんてとても羨ましがつてゐるよ。第一馬車を引かす馬とは比べものにならぬよ。」
 ガウンで覆はれてゐたから毛並は解らなかつたが、息子は得意気にそんなことをいひながら手綱を引いて行き過ぎて行つた。
 擂鉢型の盆地で、丘の上から見降す具合の馬場であつた。十頭ばかりの馬が馬場に出て切《しき》りに競争の練習中だつた。
「雪さんは居ないやうだね?」
 三木は双眼鏡を借りて見降してゐた。騎手も馬も丘から見ると玩具の大きさだつた。
「居ないのかしら?」
 青木も切りに探し索めた。やがて、
「あ、居る/\。村長の息子が、傍へ行つて何か話しかけてゐる、今の自慢の馬を示しながら――。彼は、自分の馬に雪子を乗せようとしてゐるぜ。」
「解らない、もう少し下へ降りて見よう。」

「海老茶のシヤツを着てゐるのが、雪子だよ。」
「鳥打帽子をかむつてゐる?」
「あいつ何時でもこゝに来る時にはあんな格好をしてゐるんだよ。女と見えるのが、困るからだつて――」
 海老茶の騎手は、息子の言葉に逆らつたらしく振り切つて、単独でスタートの練習に余念のない有様だつた。――競馬についてはほとんど知識のない三木だつたが、自由な疾走の具合や、動作のスマートな点があまりにきは立つてゐるので眼を見張らずには居られなかつた。他の騎手連も、彼女のオーミングアツプが始まると一斉にその方を見物してゐるのであつた。
「俺には何《ど》うしても、あれが雪さんだとは思はれない。第一、女と見えぬ。」
「此処からなら顔だつて解るがね――此方に向つて駆けて来るところを、眼鏡で好く見てみ給へ。尤も、普断の顔と奇妙にあいつは、変つてしまふんだよ、ドリアンを飛ばしてゐるとなると――。俺は実際あいつのあの境地だけは羨ましい――恍惚状態といふものゝ不思議を俺は、沁々感じさせられる。ドリアンの他に何もないといふのは無理もないと思はれる……」
 三木は、それでも、その騎手が雪子とは思はれなかつた。彼は、自分が厩のある家の主になつた空想の世界を覗く切なる想ひだけで、一心に望遠鏡を両眼におしあてゝゐた。

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