C先生への手紙

雑信(第一)

 

  C先生――。
 其後は大変御無沙汰致して仕舞いました。東京も、さぞ暑くなった事でございましょう。白い塵のポカポカ立つ、粗雑なペンキ塗の目に痛く反射する其処いらの路を想像致します。御丈夫でいらっしゃいますでしょう。
 此間中から、私の思って居る種々の事を申上度いと思って居りましたが、つい延び延びに成って仕舞いました。決して忘れて居たのではございませんが、近頃、私の生活の上に起った変動は、非常に大きく私の精神上に波動を与えました。決して混乱ではございません。が、その大きく力強い濤が、勇ましく打寄せて、或程度まで落付いて仕舞うまで、私は口を緘んで、じっと自分の魂の発育を見守って居たのでございます。
 家を離れて来てから、時間としては、まだ僅か半年位ほか経っては居りません。
 けれども、海を境にして、私の「彼方」でした生活と、今「此処」で為る生活との間には、殆ど時間が測定する事の出来ない差がございます。眼が少しは物象を見るようになりました。耳が微かながら、箇々の声を聴くようになりました。つまり、私は漸々自分に生きて来たのでございましょう。真個に足を地につけて、生き物として生き始めたとでも申しましょうか。今までの私は、生きると云う事を生きて来たのだと申さずには居られません。
 概念と、只、自分のみの築き上げた象牙の塔に立て籠って、ちょいちょい外を覗きながら感動して居りました。従って、私は何に感動して居るのか、又するべき筈だかと云う事、又その感動の種類は大抵分って居りました。ところが、人間が活きて動いて居る世の中はなかなか其那、整然たるものでもなければ、又其程、明るいものでもございません。
 人と人と鼻を突き合わせて見ると、何と云う人臭さが分る事でございましょう。
 人間の醜さ、人間の有難さ、其は只、彼等の仲間である人間のみが知る事を得ます。
 頭を下げても下げても、下げ切れない程、あらたかな人の裡には、憎んでも憎み切れない或物が倶に生きて居ります。
 苦笑するような心持は、十や十一の子供には分らない心持ではございますまいか。
 丁度、雨にそぼぬれた獣物が、一つところにじっと団り合って、お互の毛の臭い、水蒸気に混って漂う息の臭いを嗅ぎ合うような親密さ、その直接な――種々な虚飾や、浅薄な仮面をかなぐり捨てて、持って生れた顔と顔とで向い合う心持は、私の今まで知らなかった、其れで居て知らなければならない事だったのでございます。
 私は、アメリカへ来たから斯う成れたのではございません。場所の何処に拠らず、私を総ての掩護から露出させた圏境に依ります。
 嘗て知らない苦労にも会いましょうし、光栄も感じます。その種々相を透して、さながら、プリズムの転廻を見るように、種々雑多な人間性が現われて参ります。
 その一色をも逃すまいとして、私はどんなに緊張して居りますでしょう。目前に現われて居るのは、本の上に印刷された理論的な文字ではございません。生きて、光線の微分子とともに動いて居ります。だから、一寸でもじっとしては居りません。今出たかと思うともう消えます、同じ物が再現したかと思っても、其の微妙な色彩の何処にか、必ず変化が来て居ります。其が、完く、泣虫寺のおしょうの見たように踊り廻り、とっ組み合い、千変万化の姿態で私の前に現れます。
 その一つ一つに、何か不具なところが在るように思われます。この不具は、存在の全部を否定するものではございませんが、兎に角、何か不具なところがある。そして、時々其が激しく油を切らして軋み合います。
 その恐ろしい騒音は、地上の何処へ行っても聴えるものではございますまいか。

 其と同時に、此の騒音の最中から、何等の諧調を求めて、微かながら認め得た一筋の音律を、急がずうまず辿って行く、僅かながら、高く澄んだ金属性の調音も亦、天の果から果へと伝って参ります。
 日本にも馬鹿は居ります。アメリカにも大馬鹿が居ります。
 粛《おごそ》かに心を潜めて思う真心の価値は、其を表現する言葉の差で違うべきものではございますまい。
 誰も、我が国、我国と怒鳴りながら、大汗を掻いて騒ぎ立てないでも好ろしゅうございましょう。又誰も、「彼国」彼の国と指差しながら、周章ふためいて、喚きながら馳けずり廻らないでも好いのではございますまいか。
 矢鱈に興奮許りしても、人間の魂が浄められるものでもございますまい。
 人間を創る者は人間でございます。創った人間を量る者も亦、人間でございます。
 心が、真実に豊かでありとうございます。その悠久な真実さが落付いて人間の種々相を観て慾しゅうございます。
          ――○――
 人が、物を観る時に、唯一不二な心に成って、その対象に対すると云う事は大切でございましょう。けれども此は、没我と申せましょうか。元より無我と云う字の解釈にも依りますが、字書通り、我見なきこと、我意なきこと、我を忘れて事をなすと致しましても、結局「我」と云うものを無いと認める事は出来ませんでしょう。
 私心ないと云う事、我見のないと云う事は、自分の持って居る或る箇性、人間性を、絶大なフ遍性と同一させた境地でございましょう。「我」と云う小さい境を蹴破って一層膨張した我ではございますまいか。その境で、人はもう、小さい「俺」や「私」やにはなやまされては居ません。けれども、天神の眼を透す、総ての現象は、天地を蓋う我から洩れる事はございません。地を這う蟻の喜悦から、星の壊《ついえ》る悲哀まで、無涯の我に反映して無始無終の彼方に還るのではございますまいか。
 同じ、「我」と云う一音を持ちながら、その一字のうちに見る差が在る事でございましょう。考えて見ると冷汗が出ます。けれども、冷汗を掻くからと云って、凝とすくんで居るべきではございません。持って居るものは育てなければなりません。下らない反動や、反抗やらで、尊い「我」に冒涜を加えず、自分の周囲に渦巻いて居る事象に迷わされず、如何程僅かでも純粋に近い我を保って、見、聴、生きるべきではございますまいか。
 C先生。私斯様な前提を置いてから、少し許り、私がこちらへ来てから「私」の感じた事を書いて行こうとして居ります。
 可成種々あるような気も致します、が、先ず同性と云う点から、こちらの婦人に就いて私の思ったままを述べさせて戴きましょう。
 厨川白村氏によって「女王」の尊称をたてまつられ、又この名にふさわしい権力を以て生きて居るこちらの婦人は、私の眼に意味深いものとうつりました。
 C先生、総て事物を客観的な立場から見て、物を考えますれば、婦人の常識が豊かな方が、貧弱な頭脳の所有者であるよりは勿論よろしゅうございます。働かない人間より、働く人間、見識のない人間よりある人間。
 先生は、ハドソン川から紐育《ニューヨーク》へ入る途中の――島に炬火を捧げて虚空に立って居る自由の女神像を御存じでございます。

 又、コロンビアの大図書館の石階を登りつめた中央に、端然と坐して、数千の学徒を観下す、Alma Mater をも御存じでございます。
 彼女等は皆此の広大なアメリカの精神の中枢となって生きて居ります。
 こちらの「女性」と云う概念は単に「女王」としてのみならず、又神とまで尊敬されます。
 けれども、気をつけて御覧遊ばせ。
 此等の女性最高のシンボルである彫像は、一体何で出来て居りますか、そしてどんな色彩をほどこされて居りますか?
 彼女等は決して、一槌の鎚でみじんになる大理石では作られて居りません。
 時間と云うものに、極力抵抗した硬金属で作られて居ります。
 そして、その上には、更に、燦い黄金をもって包まれて居るのでございます。
 先生
 ルネッサンス式の壮大な、単純と優雅とを調和させた大建築の前面に、厳然と立つアルマ・マターは、何と云うよき場所に置かれたのでございましょう。が、又このよき場所であるが故に、一層俗悪に見えるその黄金が、何と云う幻滅を感じさせますでしょう。純白な面に灼熱した炬火を捧げて、漂々たる河面から湧き上った自由の女神像こそ、その心持につり合って居りますでしょう。
 それだのに、何故、私たちの目前にある其は、此れも亦醜いと云う点からさほど遠くない金鍍金で包まれて居るのでございましょう?
 アメリカの婦人は、神位にまで近づきます、けれども、「黄金の死」を死ぬのではございますまいか、私はこの二つの事実が、こちらの婦人の実生活をかなり辛辣に諷刺して居ると思うのでございます。
 消極の極で暮して来た、否暮させられて来た、日本婦人に対して、生きて弾む生命を持って居るこちらの婦人の価値は、種々な形成に於て或時は余りに過重され、又或時には余りに価値以下に観られて居ると思います。其がどちらの場合に於ても、ロング、エスティメートであるのは明かでございます。
 何故それなら、そう云う誤った観察をされるのだろうと思います。
 此方の婦人と云えば、只一口に、何、アメリカのお転婆女は、男を圧迫して、暴威を振う事ほか知らないのだとけなす人もあれば、否左様ではない、アメリカの女位知的で、活動的で、芸術的で、総ての点に完全な婦人はないと讚美する人もございます。
 どっちが正しいのでございましょう、又何故、同じ、アメリカの婦人と云う対象に向って、両極端の批判がなされるかと云うと、第一の原因は、その観察者が多くの場合に、総て男性だからと云う事に大きな理由を持って居ると思います。

 女子教育の視察に行く人は多く男性ではありませんでしょうか。
 美術や文学の美くしさを探ろうとして来る人々の裡に、幾人の女性が居りますでしょう。
 異性が異性を見る場合に、兎角起り勝ちな、又、殆ど総ての場合に附帯して来る、多大の寛容と、多大の苛酷さが、アメリカの婦人に対しても両方の解決を与えるのだと思います。
 まして、現代の日本の男性に表われて居る二つの型――勿論其は至極粗雑な大別ではあっても――は、保守的婦人観と、進歩的婦人観とに分ち得ると思います。
 女性の感情の至純さと、素質の平等、一言に云えば夫人の良人に対する知と云うものに尊敬の払えないような、所謂男らしい欠点を多大に持った人は、こちらの女性に対して、彼の持つ、哀れむべき尊厳を犯される不安から、虚勢を張ってけなしてしまいます。
 又もう一方の場合では、只さえ、今の煮え切らない箇性の乏しい、我国の女性に同情はしながらも、その解放の為に叫びながらも、衷心の不満を押えられないで居る男子が、兎に角、自分というものを持って、ピチピチとはねる小魚のように生きて居るこちらの婦人は、満たされない或物を同様に満たす或物を持って居るのは争えない事実でございましょう。
 自分の夫人でありながら、自分の仕事には一向共鳴を感じてくれない自分の人。魂を激しい愛――愛と云うものを理解した愛――でインスパイアしてくれるどころか、只怠いくつな寄生虫となって、無表情の顔を永遠の墓場まで並べて行かなければならない――。
 其は、女性である私が考えてもぞっとする事でございます。人間として、悲しむべき生活ではありませんか。従って、自分の生活はそうでないにしても、周囲の多くの事件に、其う云う歯がゆさを感じて居る人が、驚くべき力を以て、こちらの婦人の讚美者となり、憧憬者となるのは無理もない事でございます。
 そう云う、各自の意見が異るところへ、こちらへ来た人々の生活は、一面から云って殆ど悲劇的な状態にあるとも申せましょう。
 家庭からは引はなされ、自分の仕事にあくせくと追い廻されながら、せま苦しい只一室を巣として、注ぐべき愛をことごとく幽閉して過す毎日は、遠く故国に自分を待って居る、「彼の女性」に対して、云うばかりない懐しさを抱かせるでございましょう。
 荒んだ感情を持たない者は、恐らく十人が十人、郷愁に掛って居ると申せましょう。
 別れて来た愛人を想う、愛すべき若者になって居ると思います。
 従って、彼を中心として、後方に注がれる憧憬は、反映して、彼の目前に現われる物象への憧憬となり尊敬となるのではございますまいか。
 素直にその心持を受入れる人は、活溌な微笑の所有者であり、明快な理智の把持者である対象に、人間らしい心持で、いいなと思います。が、従来多くの男性を圧殺し続けて来た、所謂男らしさに心の歪けさせられた者は、憧憬をねじ向けて、嫌厭に突込んでしまいます。そして、ちっそくしながら、地上あらゆる女性に向って、死物狂いの呪咀を浴びせるのではございますまいか。
 其処で、私は、自分達と同じ女性であるという点から、一層公平に、彼女等の讚すべき美くしさと、尊さとを称すと倶に、彼女等の持って居る人間らしい欠点に就ても静かな省察を試みたいのでございます。
 彼女等も人間以外の何物でもございません。

 そう改めて云うと或は可笑しく響くかもしれませんけれども、私共は、お互が人間であると云う事を、余り等閑に附して、人を是非致しますから――。
 彼女等の持つ力は、人間総ての女性に与えられるべきものであり、彼女等の苦しむ何等かの不安、不均斉は、又人間すべての女性が同じ涙で泣くものであると云う事を、私はいつも考えの裡に入れて置きとうございます。
          ――○――
 こちらの婦人の体力の豊かである事は、一言の駁論も許されません。
 彼女等は、思いのままに延びた美くしい四肢の所有者であり、朗らかな六月の微風に麗わしい髪を吹きなびかせながら哄笑する心の所有者でございます。
 広大な地と、高燥な軽い空気は、自ずと住む人間の心を快活に致します。のみならず、婦人に向っても、何等の差異なしに開かれて居る生活の道程は、我国の婦人の強いられる極端な謙遜も卑屈さも味わせません。
 彼等は、仕たい勉強が出来、生きたい形式で生き、愛すべき者を愛す権利を持って居ります。
 此の生きたい形式で生きると云う事は、どの位人間の魂を広闊にするものでございましょう。
 若し彼女が自身の力さえあれば、どんな大きな邸宅に百人の従僕を使って暮す事が出来ると倶に、どこかアパートメント只一つの部屋をかりて、男のような服装で暮したとて、誰も、其を非難したり変更させたりするものはございますまい。皆、各自の力でございます。箇性が、彼女等の全部を支配して居ります。日本のように絶対の親権もなく、彼女の魂まで自分の暴威に従わせようとする憎むべき良人の下で、光栄あるべき「女性」を殺戮されないでもすみます。
 其故、こちらの婦人の生活を批評しようとしても、其処には殆ど無数の差別が必[#「必」に「ママ」の注記]される訳なのでございます。
 数多《あまた》の人種が、混り、殖民化の歴史を持って居る国の女性としては当然な事でございますでしょう。が、先ず大体三つに分けて見ましょう。
 そうすると、
 第一は、思い切り保守的な、宗教的な婦人と、
 進取的な、努力的な、従って標準より、より知的であると倶に芸術的である婦人。
 第三は、良人から与えられる金を当然の権利として、彼女の意のままに消費する群、つまり流行の偶像であり、香油と白粉の権化であり、良人の虚栄の仲介者となって居る婦人達。アメリカの物質的方面を恐ろしい程体現して、自分はいくらでも、素晴らしい着物を着て出来る丈美くしく交際社会の花形となって居ればよいのだ。良人は自分のある御かげで、彼が如何に物質的豊富であり、女性を遇する方法を知って居るかを人に誇ることが出来るのではないか、私共はどうせ、利益の交換で生きて居るのだと云う婦人。
 此等三つの群のほかに、勿論、或一点を堂々廻りして只平安に生きて死んで行く多くの人々と、アメリカの婦人の一部として、殆ど何人の注意も引かれずに、明光のささない穴ぐらの中で一生を送るような、哀れむべき貧民階級の婦人のあることは事実でございます。

 けれども、真の意味に於て、女性を成育させて行くのは、何と云っても第二の部類に属する人々だろうと存じます。
 健全な体躯と、明快な理智と、馴練された感情は、光栄な何等かの理想を彼女の魂の裡に植えつけます。そして、緻密な理論的考察と、自由な心の持つ新鮮な覇気とは、アメリカを毒す、余りに群衆的な輿論から毅然として、彼女の道をよき改革へ進めますでしょう。
 斯ういう婦人の裡には、真個に跪拝すべきよき力が漲って居ると思います。時には、うんざりさせてしまうような調子の高い陽気さも彼女の裡にはしっくりと融和されて、女性の強靭な弾力を輝やかせる一色彩となりますでしょう。
 彼女こそは愛すべき永遠の女性として、地上の歓びを生むべきなのでございます。
 けれども、C先生、勿論此は、現存して居る人の一つの型をより強調し、より理想化した私の偶像にすぎないのでございます。
 こういう方向に向って行って居る人は居ります、勿論。けれども、彼女等の周囲を囲繞して居る種々な条件はなかなか、人類の希望する「そのところ」へは行かせません。
 私共の前進に大きな困難があると同様に彼女等も又、多大な努力を要すべき種々な障害を控えて居ります。保守的な彼女等の先輩は、只管に聖句を愛用して、誤解した神聖さで、人間を殺そうと致します。
 薔薇液を身に浴び、華奢な寛衣《ネグリジェー》をまとい、寝起きの珈琲を啜りながら、跪拝するバガボンドに流眄をする女は、決して、その情調を一個の芸術家として味って居るのではございません。
 こちらの婦人の華美と、果を知らぬ奢沢は、美そのものに憧れるのではなくて、一顆の尊い宝石に代る金を暗示するから厭でございます。
 けれども、斯様に、種々の差別を以て生活して居る幾千万かの婦人を透して、持って居る何物かもございます。
 其をあげて見るならば、第一は、積極的な事でございましょう。こちらの婦人と、我が故国の婦人との差は、恐らく、只此の積極と云う一字の差であるのではございますまいか。
 私共の親達は、彼女の少女時代をどうして育ったでございましょう。その処女時代を、その新妻として記憶すべき時代は、彼女の脳裡にどんな美くしく喜ぶべき思い出となって居りますでしょうか。
 私は、自分の母のために、総ての左様である女性の為に、真個に彼女等の受けて来た待遇をお気の毒に思わずには居られません。
 笑いたい丈笑わせられる若い娘が幾人ございましょう。勉強したい丈させられる人、愛したい丈真に愛せる人。其等の人は、我国の女性のうちに幾人あるでございましょう。従来の形式的教育は、総ての外囲だけを強制的に調わせようと致しました。
 そして、その整ったと云う理想の形は、只無暗に人の心の裏を悟るに早く、自己をフランクに表わす事なく、凝と総てを両歯の間にかみしめて、眉を上げたような女でございます。
 女性の持つべき総ての特性を完全に育てられては居りません。従って、彼女等は、尊敬すべき良人を守って、超然と立つ勇気も無ければ、放蕩無頼な良人をして涙を垂れさせる、尊き憤りもございません。従順と、屈従との差を跨き違える人間は、自分の何事を主張する権威も持たない薄弱さを、「私は女だから」と云う厭うべき遁辞の裡に美化しようとするのみならず、小溝も飛べない弱さを、優美とし「珍重」する(特に珍重という言葉をつかいます、何故なら、人間は、畸形な小猫をも、その畸形なるがために珍重致しますから)男性は、その遁辞を我からあおって、自分等の優越を誇って居ります。

 此等に気焔を上げてしまいましたが、とにかく、此の積極的という事は、万事に就て、こちらの婦人の強みになって居ると思います。良人の僅かな月給を、どうしたら一銭少く使おうかと心配するより、先ず、自分が幾何補助する事が出来るかを考えます。
 どうしたら怒らせまいかと思い患う前に先ずその一つ先の笑わせる事を考えます。
 彼等が生活というものを真剣に考える事は、我国の婦人の及ばないところだろうと思います。
 生活は彼女等にとって遊戯ではございません。生きなければならないと云う事は、片時も脳裡を去らない緊張を与えて居ります。
 其故、よく日本の人々の間に云われる、自動車を持って居ても下女は使わないという現象になるのでございます。元より自動車と云っても、日本のように単に贅沢者の玩具か、人敷道具として行われて居るのは外の国には類のない事でございましょう。こちらでは時間を倹約する唯一の道具として、極端に近く実際的に行われて居ります。
 斯うして並べて来ると、アメリカの婦人は、只良い点ほかないように見えるでございましょう。けれども、私は決してそうではないと思います。彼等にも欠点はございます。けれどもその欠点は多くの場合、彼等の長所を裏から見た場合でございます、私が今までに感じた事は、直覚の鈍い事、自ら与えられた権利に捕われて居る事、余り物質的なことと、群集的なこととでございましょう。
 彼女等の引緊った表情と、軽快な容姿と比較したとき、その直覚の鈍さは、時には滑稽の感を与えずには措きません。
 年中緊張して、笑う間にさえ尚心にゆとりを与えない彼女等の生活は、東洋人に特恵である直覚と対立した時、思わずも微笑させる余裕を作ります。
 社交的で、人をそらさない婦人も、発音が少しでも違うともうその言葉が分らない。思い上ったいい顔にも当惑の色を浮べて一寸躊躇する様子は可愛いうございます。
 一体こちらの婦人は子供のうちから、尊敬される習慣を持って育って居ります。擲り合て喧嘩をする腕白小僧も、一人女の子が入って腕をつかむと、嘘のように音なしくなってしまいます。其故、年をとるに従って種々の条件から加って来る自尊心は、法律的権利を獲得することによって一層強められて居ります。日本の婦人には与えられて居ない法律的人格が、彼女等には強い後盾となって居ります。勿論女性も人類である以上、人類の発達の為に備えられた、人が人の為に作った法律はこの当然の権利を女性にも与えるべきであり、要求すべきでございましょう。
 私は、自分の同胞が、余り惨めな法律的存在であるのを悲しく思うとともに又こちらの多くの女性が、自分等の善用すべき権利に却って駆使されるのをも見るに堪えない心持が致します。
 日本にもやかましく云われる、法律的な離婚問題、離婚と云う事は、この事自身既に充分悲劇的でございます。が、其等の原因が、彼等二人の真の生活を破壊するものである時は、法律的離婚は已を得ない事でございましょう。より善き、より純一な相互の生活の為に已を得ない事でございましょう。決して、あるべき事ではない。そしてそう云う場合に用いられる法律的権利は、最も慎重な反省と、深い理知的批判を経た後にのみ決定されるべきもので、単純な反抗心や、浅薄な優越を得たい為であってはならないのは勿論の事でございます。
 ところが、こちらでは、そう云う事件の場合、悲劇を一層悲劇的ならしめる結果が多いのは、どうしてでございましょう。
 一人の人間が死ぬことは、大きな悲しみでございます。
 その死ぬ一人が、又他に一人を殺すのは、恐るべき事ではございませんか?
 もっと具体的な例をとって申せば、一人の人が対手に愛を失ったのは、もう其で充分な涙であるべきでございます。其が、愛を失った上に、魂の尊重すべきをさえ忘れるのは、更に悲劇ではあるまいかと云う事でございます。

 離婚訴訟には、婦人の弁護士がつきます。そして、大抵の場合に婦人が勝訴になります。時には、良人が何等の悪意も蛮行もない場合に於てさえ婦人は訴訟して、勝つ事がございます。
 其は何故でございましょう。何故そう云う恐るべき冒涜が人間の魂に向ってされるのか? 此は、私が真個に心から、人間の浅間しさを思わせられる一つの現状でございます。
 考えて御覧遊ばせ C先生。
 此処に一組の夫婦がございます。
 彼は忠実に彼女を扶養し、朝から晩まで働いて、自分の愛するものの為に努力致します。が、妻の方は、只自分が一生一つ顔ばかり見て居なければならないと云う厭怠から、他に情人を作ります。もう彼女にとって、忠実なる働き手の良人は何の魅力も持って居りません。重荷でございます。早く振りはなしてしまいたい、けれども、若し自分がこのまま単純に左様ならを告げたのでは損になる。真個に彼女は字通り損になると思うのでございます。
 其だから、何か良人の欠点を掴って、其を訴訟の材料として扶助料を取った方がよいと思う。其処で、彼女は嘗ては愛情を表現するのに、どうしたらよいだろうと思いなやんだ同じ胸で、今度は、どうしたら、彼を怒らせ、自分に手をあげさせ、その挙げたままの手を捕えて、法廷に出られるだろうと工夫するのでございます。
 哀れむべき良人は、正直に彼女を愛すが故に正直に怒りますでしょう。
 真心から彼女を抱擁するが故に、真心から彼女を打つかもしれません。そして、心は悲しみに満ちながら、彼女のかねて予想した結果にまで事を運んでしまうのでございます。
 斯ういう事情があっても、良人が自分を虐待するという為に訴訟し弁護され、勝訴するのは、公正な事でございましょうか?
 C先生
 私は、人間の魂に余り「知」の不足する事を涙とともに悲しまずには居られないのでございます。
 此の事件をよく考えて見ますれば、此は単に、そう云う悲しむべき目に会った良人が可哀そうだと云う事丈ではすまされません。
 良人が哀であると同様に、彼女も哀れむべき魂の所有者ではございますまいか。
 愛を失った事で或程度の苦味を嘗めた心は、人を計ろうとする奸策で汚され、其に成就した誇りで穢されなければならないのでございます。
 其に比べれば、良人の受けた結果は、そういう性質を知らずに結婚した不明と、その策略を感じなかった事を賢くないとしても尚、この真の意味に於ける破産は、比較にならない程潔いものではございますまいか?
 私は、食べられなければガツガツし、自由に食べられれば、食傷して死ぬ人間の惨めさを思わずには居られません。

 単に此の場合のみではないのでございますから――。
 人間は種々な方面に此の貪慾さを持って居るのではございますまいか。
 軍備の完備した国家は、自国を防禦する筈のその軍力を以て祖国を失ってしまいます。
 物質の豊かな国民は、その豊かな物質に首を絞められます。
 斯様にして、権利を所有するが為に却って、魂を汚す彼女等は、同時に又その豊かな――そして其を反面から見れば非常に緊張した物質に地獄までも追いかけられて居るのでございます。
 彼女等が、私共日本婦人には欠乏して居る経済思想に富んで居ると云う事は尊敬すべき事でございます。けれども、その使用すべき物質に使用される事は恥辱ではございますまいか?
 彼女等は又彼等は、恐ろしい程の実際家でございます。如何程美くしいものでも、其が彼女にとって、何等かの実際的効用を与えなければ、其は只彼女等特有の、形容詞たっぷりの讚辞を呈された許りで通り過ぎられてしまいますでしょう。
 だから、買物を仕ようとしても、決して只珍らしいとか美くしいとか云う丈ではなかなか買いません。いくらでも褒められる丈褒めちぎりますでしょう。そして店番の男を有頂天に致しますでしょう。が、其丈でございます。彼女等は決して、褒むべきものと買うべきものとを混同しない丈の確っかりさを持って居るのでございます。其故、芝居にしても其が娯楽である以上は心を楽しませ、小説がたのしみの読書である以上愉快なものであるべきだという考さえございます。其故、内容を深く知らない人達はこちらの職業婦人と申しましても、概して工場事務所、商店等に働く婦人が、外面的の労働時間と衛生規則は完全であっても、その物質慾に刺戟されて如何に惨憺たる生活を営んで居るかと云うことも御分りになりますでしょう。流行の着物を着、華奢な靴にくるくると町を歩く若い女達の眼を御覧遊ばせ、神は其処で無限の悲痛に涙ぐんで居ります。
 C先生
 斯うやって書いて来て、たまった頁数を調べて見ましたら、もう随分沢山になって居ります。
 書いて行くにつれて、種々の事が思い出されて、限りがないようになります。がもう止めに致しましょう。余り長くなって、御あきに、なるといけないと存じます。
 最後に、かなり突込んだ彼女等への一つの弁護として、アメリカの女は概して、落付きがない、軽薄であると云う批評に対して一言を書添えたいと存じます。
 私がこちらへ参りましてからも、そういう感じはかなり強く印象された一つでございます。だから、概して申せば、若い人達は、如何にも可愛いが好きではないということになります。
 実際、所謂女仲間に入って見ますと、私などは、かなり出しゃ張りの方でも、その絶え間ない早口と、戯談と寸刻もじっとして居ない態度とは、神経を気の毒なほど疲らせてくれます。
 女の人の寄宿舎などは、まるで、今海から上げた大漁の網そのままの活々しさでございます。踊るもの、かけるもの、キーキー云ってふざけるもの、声高に座談をなげ合うもの、命が躍って、躍って、止途もないというようなのが女の人、ことに若い人の通用性でございます。絶えず興奮して居ります。
 静かにしんみりと話すことは少くても、笑うか、喋るか、歌うか、動くか致します。

 其は勿論活動的であり、積極的であるからでもございましょう。がその一つの原因は、絶間ない刺戟に彼女等の神経が追い立てられて居るのでございます。
 うなりを立てて廻転する大都会の車輪の一端に、辛くも止まって居る微細な神経は、過度な刺激で或程度にすりへらされて居ります。
 そのすりへらされた神経に与える変化は、どうしても濃厚なものでなければなりません。生活に疲れた頭は決して、低声の雑談ではいやされません。
 目のさめるような事がなければ息がつけません。
 従って彼女等は、濃い色と、強い音調と香気と、強い興奮で、轟々と鳴りとどろく、大都会の騒音に辛くも反抗するのでございます。
 其故同じアメリカでも、場所によっては、決して騒がしい女性許りではございません。
 しっとりと、草の葉のさざめきに耳を傾ける人もございます。
 私は、彼女等が圏境から与えられた騒躁な、騒躁でなければ居られない神経と云うものに、人間はもっと深い同情と思慮とを費やすべきだと存じます。
 何故なら、此は、只彼女がそうなったと云うのみに止らず、そう云う圏境は、従ってそう云う文明は、正しいものか、正しくないものかと云う大きな問題に逢着すべきだからでございます。
 又気焔を上げそうになります。真個にもう此は此処までに致しましょう。
 御ゆっくり御やすみ遊ばせ。
 静かに更けて行く湖面には、小さい螢が飛んで、遠い沼に、かえるが長閑《のどか》に喉をころがして居ります。
[#地から2字上げ]六月十七日

 

       雑信(第二)

 

        (其一)

 

 C先生。
 雑信第一に於て、私は自分の仕事に対する近頃の心持を御伝え致しました。従って抽象的であり、且つ独り合点の事があって、叙述が充分ではなかったかも知れません。然し、あれはあの儘で是非御目にかける必要がございます。言葉に表現する事は非常に困難なほど、私の心に喰い込んで起った現象なのでございますから。私は先生が、あの心持をよく御感じ下されば其でよろしいと思って居ります。此の雑信第二に於て、私は一人の女性として、此国の又我が故国の女性に就て近頃考え感じて居る事を書き度いと存じます。女性に就てとは申しながら、人類としての女性に厳粛に対する場合、女性に関しての考察と批判とは勿論男性の生活に直接な関係を有して居るものでございます。従って結果に於ては、人に就てと申すと殆ど同様の事に成りますでしょう。
 其から第三。に於ては、私の今居ります田舎の事を少し書きます。そして一先ず、私の先生並よき友に送る雑信は終りになります。紐育へ帰ってから仕度いと思う仕事は何等かの結果を齎しますでしょうが、其を此次は何時お目に掛けられるやら、まだ未定なのでございます。
 C先生
 私は今此から深々と、此国の女性と、其の観察者の態度と申す事を考えて見度いと存じます。
 批評や紹介等と申しますものは、観察者の態度如何に依って非常に影響を与えられるものではございますまいか。態度と申すのも、心の置き方でございます。一体婦人問題のみならず他の総ての思想は、近頃非常に米国の影響の許に居ります。そう云う場合、人は、冥々の裡に与えられる暗示に導かれて、兎もすると無批判な雷同に堕して仕舞います。群衆の不思議な催眠術が幅を利かせます。そして、つい半年許り前は、地球の何処の隅に其那字が在るかと云うように無智であった者まで、流行の標言を振りかざして、目的のない突進を企てるような事に成って仕舞います。其故、欧州の戦乱後、世界の呪文のようになった米国の女性に就て物を考える場合にも、私は其等の乱酔的の興奮にはかられたくないと存じます。無批判で外界の刺戟に左右される事は恐ろしい事でございます。人が自分を殺すような事になります。
 良いも悪いも米国仕込みは厭でございます。米国の持って居る不思議な、特殊な浅薄さをまで無条件に移植するのは、単に趣味の上から申した丈でも否なりと存じます。今世界と云うと、米国が中心で廻転して居るような感が無いでもございません。けれども、米国人も人間ではございませんか、人性の錯綜に就て、人は静かな考慮と洞察と、同情とがなければなりません。人間の持つ尊厳と光彩と天才とは彼等の上に燦然と輝きますでしょう。然し又他の一方には、其等の悠久な軛であるあらゆる「あるべきもの」の消極も存在して居ります。此の二方面の力の消長に、人は聰明でなければなりません。一面から申せば、彼女等の苦しむ事と、私共の苦しむ事とは同じでございます。そして総ての人間が苦痛と思う事なのだと云う事になるのでございます。
 斯様に書きながらも思う事でございますが、他国人が他国人を批評する時、兎角陥り易い欠点は、或人間の群が、或特定の圏境の裡に発達したもの、と云う心持で批評の対象国民を見ずに、その人間達の持つ国名の響で、批判的気分の大半を埋めて仕舞う事だと存じます。
 箇人と国家とは離れ得ないものでございます。
 然し、「米国人」と申す天[#「す天」に「ママ」の注記]外人の存在ではないのでございます。彼等の構成した国家の、地理的国境と、政治的体系と、彼等の始祖からの気質《テムペラメント》の傾向に種々の変遷を経つつ今日に至った一群の人間なのでございます。名は約束でございます。日本人と云う総称が、其の裡に無数の箇性的差異を包含して居る通り、人類と云う響は又其の内に、箇々の民族的差異をも暗示して居ります。
 其故私は、国民的名称の差異に意識無意識に左右された批評は好みません。私は米国人とその名を以て、その約束的符牒で彼等を呼ばなければなりませんけれども、其に対する心持は、地上の人類の一群に起った現象として無我に面して行きたいと存じます。人類の生活、文明史に現われる総ての事件は、その心持で接せられるべきではないのでございましょうか。殺す人間も殺される人間も、等しく人間と云う点に於て切れない血族でございます。世界的悲劇の発生も、その血腥い過程とよりよき芽を育てようとする結果とを通して、一つの重大な、沈思すべき「現象」に対する平静と公正とを以て向われとうございます。
 地上に起る総ての事に、よき魂は無関心であってはなりません。無智であってはなりません。流転して止む事ない心の微妙な投影は、其を洞察しつつ、理解しつつ愛に満ちて統御する叡智の高度に準じて価値つけられますでしょう。認識の拡張は人類に冠を授けます。
 然し認識の内容は多くの未知を、或は未完成の存在をも、今日の私共の裡に承認する筈なのでございます。
 前提が少々長く成って仕舞いましたが、此処から以前の主題に戻って、此国の女性と、その観察者の態度と云う事に就て考えて見ると、私はどうしても、その観察者――紹介者の態度に大別して二様の傾向が在ると思わずには居られません。従って、若し此の二様の傾向の存在を肯定するならば、私共は又引いて、紹介される此国の女性観も、同じ差異を持つ事を考えなければならないのでございます。

 

        (其二)

 

 C先生。
 私は此の国の女性に対する観察者の態度が、大別して二様の異った傾向を持つと申しました。其を説明すると、第一は愛すべき米国女性美の崇拝者であり、第二は、嫌人的《ミザンソロピカル》な酷評者の一群と成るのでございます。
 然し其ならば何故左様な傾向が在るのでございましょう。その最も大きな原因は、今までその紹介に従った観察者が、多く男性であったと申す事によるのではございますまいか。
 元より、外国の生活をしたのは決して男性に限られた事ではございません。女性で此国の生活の日常に入って経験した方はございます。けれども先生は、女性同士の間の、特種な無関心を御存じでいらっしゃいますでしょう。或時は同性の心易さからの無関心――無邪気な放心であり、或時には微妙な、宛然流れ混る雲のように微妙な、細心な uneasy から、無関心に遁げる場合もございましょう。其に、如何うしても、生活範囲が或一区画に限られ勝でございますから、刺戟の少い圏境のうちに、働くべき省察は眠って仕舞う事もございましょう。其等種々の原因は兎に角、我国の女性が、女性自らの事に就ても、可成沈黙であると云う事は、如何うしても、一方男性の言に多くの反響を迎える結果になるのは争われない事実でございます。従って、米国女性観とも申すべきものは、殆ど皆男性の手に成されたものとも申し得るのでございます。其故、私は此処で、今日までの過程を反省して、先に申した二の差異ある観察の態度に就ての批評も、数に於て多い男性の上に、其の基礎を置こうとするのでございます。
 先ず第一、愛すべき崇拝者の場合に就て考えて見ます。
 人はよりよきもの、よりよき如何なる些細なものに対しても、無我に謙虚である事はよろしゅうございます。そうでなければなりません。然し、考えなければならない事は、無我の謙虚と云う事と、理智の催眠《ヒプノタイズ》させられた感情的称嘆とその事との間には大きな差の在る事でございます。或る輝きに盲目にされて、夢中に双手を挙げて叫ぶ感激は、純粋な批評と申す事は出来ません。感激の強度と、批評的価値の高下とは綿密に考えられなければならないものではございますまいか。
 けれども、私共は先ず、此の催眠させられる程烈しく湧き上る憧憬は、如何なる背景をその後に持って居るか考えなければなりません。其程の恍惚の歓びは、何処から来るのでございましょうか。崇拝者の多くは、その程度の差こそあれ、悉く現今の日本女性に、満たされない心を持った一群であると申す事が、何よりも雄弁にその原因を物語って居るのでございます。
 現代の日本女性に就て公平に考えて見ると、或種の人々の考えて居るように、楽観すべきものでも無く、或人々の只一口にけなす程価値の無いものでもございません。教育家の一部が易々諾々として教案を草し、その教案によって百年一日の如く恐ろしい厭怠の裡に所謂良妻賢母を説いて居る、その偽瞞の現状維持は、強いても日本女性を楽観して居ります。然し、其は軈《やが》て彼等のギロチンになりますでしょう。若い女性、従来若いと云えば、直ちに幼稚な頭脳、浅い判断と云う追従語によって形容された青年は、少くとも、生命に満ちた心其もので現代の不安を感じて居ります。魂を強め、生活に力を与える暗示を得る事は望んで居ります。一般に、彼等自ら、何とも知らぬ、言葉に表現出来ぬ不安な模索を仕て居るのでございます。青年を否定する事が直ちに反映して、彼等自らの青年時代の侮蔑であるのを知らない或人は、周囲の青年の価値を低める事に依って自らを高めようとする卑劣さがございます。所謂女らしさと云う曖昧な軛と、極端な家族制度の弊と、男性の無智と不備な社会制度は、進路を展こうとする女性に無限の苦悩を与えて居ります。其上に、長い伝習と、不具な教育とは、女性自らの体力と智力とをも束縛して居ります。従って、現代の日本の女性の裡には無数の夭折する――心理的の意味に於て――力が埋められて居ります。何物をも産出する事の不可能なよき魂がございます。よく成ろうとする無数の力、発展しようとする発芽の希願は、厚い塵芥の堆積の下で、恐るべき長時間を過さなければならないのでございます。
 私は明かに私共の仲間である多くの若き女性が、少くとも次の時代に於て、何等か有形の発展を遂げ得る動機を各自の裡に包含して居る事丈は肯定致します。
 然し、自意識の欠乏は、同じ女性である者にも尚一種の歯痒さを与える事も否めません。自意識の欠乏は生活のあらゆる角に、力の弱い朦朧さを与えます。総てから決然たる決定が奪われます。積極が逃げて仕舞います。
 そして田野に円舞して、笑いさざめき歌を歌う生命の活気もなければ、専念に思考を練って穿ちに穿って行く強度も無く、表情が、力の欠乏に生気を失って居ると全く同様の状態が内奥の魂にまで食い入って居ります。愛する者をして愛さしめよ! 良人と自己の愛の為に斯く断言し得る者が幾人、無数の妻の裡にございましょう。真個の伴侶は、友は、而して母は、少うございます。
 其の一口に申せば生温《なまぬ》るさに、満ち足りなかった男性の心は、此国の強健な肉体と、少くとも自己を主張し得る女性の「張り」に、甦ったような解放を感じずには居られないのでございます。弾力のある心、態度の快さに目の覚めるような鮮やかさを感じます。多種な容姿と表情は、子供時代からの両性交際に練れ切った巧なタクトと倶に、彼の周囲を輝やかせますでしょう。そして、其の目前の女性は、宇宙の女人其ものの表象であるかの如く、彼の脳裡から悉く他の女性の型を追い払って仕舞うのでございます。

 

        (其三)

 

 C先生。
 斯様にして、彼の魂の活気と悦びを新たに甦らせた女性美は、彼の口から殆ど無条件に理想的なもののように語られます。語りつつ彼の心に起る陶酔は、言葉にいつか装飾を加え、その興奮の快さは我を忘れさせます。其処で、智的で洗練された情緒の所有者である米国の女性は、正当に伸張された法律的、政治的権利を保有して、健全な美くしい肉体と倶に、総ての国家的文明に貢献して居ると申す事になるのでございます。
 私は決して、此の言を絶対に否定は致しません。然し、加えらるべき考察はございます。私共は此よりは、もう少し、観察者の落付いた、一面から申せば惑わされない眼で、もう一枚彼方を透視仕なければなりません。
 第一の傾向が斯様であるに反して、第二の部類は、全く此とは正反対でございます。
 米国の婦人は主我的で、非家庭的で、軽率で感情的だと云う事が極度にまで強調されます。彼の前に米国の女性は愛し、尊むべき女人ではなくて或人の言を借りて云えば、単に“Female”であるに過ぎない、其も物質的な、金の掛る家畜だとまで酷評されるのでございます。
 私共は、斯様な放言に対して、総ての女性の尊厳の為に飽くまでも申さなければなりません。斯様な批評を下す人は従来日本の女性が魂まで殺戮されて来た半婢半娼の待遇を、家長――男性の女性に対すべき態度だと思い、その無自覚な沈黙と奴隷的な服従とを女性の誇るべき美徳と妄信する輩でございます。彼の渾沌たる智は、「今」に発育しつつある文明の急速な変転を知り、理解するには余り頑迷でございます。彼を自殺させる女性観は、米国婦人の持つ総ての積極と自動的生活との前にしどろもどろな咆吼を致します。女性に対する誤った態度は、彼に触れる総ての女性から孤立させられますでしょう。そして、憐れな魂は、暗澹たる故郷への郷愁と、懣怨と、一層深入りした我執との裡に転々して、呪を発するのでございます。彼等の最終の呪文は、我国古来の美風を忘れて、徒に浮薄な米国婦人等に其の範をとるのは杞うべき事、恥ずべき事である、と云うのに終りますでしょう。
 我国古来の美風――友よ、其なら貴方はその美風が如何なるものであるか御説明下さいますか? 彼は、丁度或種の施政者が、「我国体の神聖」「勅語の精神」と云う文字を駆使するのと同様の内面の空虚を文字の麻酔で紛して居ります。彼は、左様な質問を呈出したなら、きっと、其那事を質問する馬鹿があるか、何の為に修身を習って来た! と真赤になりますでしょう。
 然し、C先生、此は決して冗談ではございません。日本の所謂先覚婦人は、兎角、青年自らの発言に耳を傾けるより先ず先に、此等の種類の言葉に賛意を表します。彼女等の権威《オソリティー》と他人の権威とは奇妙な価値判断の錯誤に陥ります。過去は尊ばるべきものでございます。その価値は、嘗て刹那の「今」であったと申す点から評価されるので。直接の対象は永劫の「今」の其の瞬刻に置かれるべきでございますまいか。何の為の先覚者でございましょう? けれども、私共は一方から申せば共通な人間の不思議な弱点――或は力の他の一面に対して寛大でなければなりません。が、左様な態度は二重に不幸を醸さずには置きません。第一は、只さえも保守的な退嬰主義に堕し易い女性一般の傾向を暗々裡に称揚する事になると同時に、他方では、一層反動的、爆発的の急進を促す事になるからでございます。其で、私は此から、私の出来る丈の細密な思考を廻らして、私の出来る丈公平な、出来る丈無我な態度で、私の観察し得た範囲の米国女性観を述べて行こうとするのでございます。斯様に広汎な問題を取扱う時、私共は如何うしても「一般」と云う点に其の目標を置かずには居られません。何処の国にも極端はございます。そして其の極は詰り人間の生活の極だとでも申しましょうか、哲人の価値は神の光栄でございます。痴人は人類の悲歎でございます。其故、私は真に徹した生活をして居る者の価値は、日常生活の風習の差異等を眼中に置かない共鳴を持つと信じて居ります。然し、私が此から観て行こうとするのは、一般でございます。中位《ちゅうぐらい》の一群でございます。私が故国の女性を思うと同じ一般の女性を語ろうとするのでございます。
 第一、米国婦人の一般が、優秀な健康の所有者であると云う事は、何を以て否定する事も出来ない事実でございましょう。確かに彼女等の精力は、私共日本女性を超えて居ります。そして、彼女等の体躯が強壮であると云う事は、其裡に単に運動を重んじるとか、衣服が活動に便利であるとか申すより以上に深い根原を持つ事を知らなければならないと存じます。
 或一民族の健康状態が、その民族の国家的境遇並に文明の程度と重大な相対的関係に在る如く、女性の生理的健康の差異は、其の根深い原因を彼女等の所有する精神的歴史の裡に持って居るのでございます。
 民族的悲運に陥って居る国民が、生理的に優越国民を凌ぎ得ない事は、彼等の悲しめる魂の所産でございます。絶えざる不満、圧迫の下に束縛されて、嘆き悲しみつつ軈ては其にも馴れて無感覚に成った不幸な魂が、如何うして輝く肉体の所有者に成れますでしょう。
 基督教が赤子の時から吹き込んだ「平等なるべき」人類として、彼等の尊重すべき伴侶として立つべき位置に立てられて幾代かを経た此方の女性と、彼女の最愛の「良人」をさえ「主人」と呼んで暮して来た日本女性との間に、其の力ある発展に於て差異を持って居るのは、寧ろ悲しむべき当然と申さなければ成ないのでございます。

 

        (其四)

 

 C先生。
 人間は人間を超える力を持って居ります。然し其と同時に、獣より悪い獣に成る事もございます。人は少くとも人間の構成した社会に於て持つべき正当な権利と義務丈は、正確に自覚し又保有すべきではないでございましょうか。人類として総勘定の内に入れられないとすれば女性は何の為に存在を許し、許されて居りますのでしょう。女性は人類の母体であると云う理解のない女性の運命は暗うございます。
 此点に於て、米国婦人の得て居る権威は、彼女等の総ての明みの起縁に成って居ると思わずには居られません。彼女等は、女性と云う性的差別、性的生活以外に、一人類としての五体をも持って居ります。男性が、一人の良人であり父であると申す以外に、彼の「仕事」を持つ如く彼女等も若し要するならば「仕事」を持ち得る丈の教育と健康とを享有して居るのでございます。が今度の戦乱に際して、婦人の活動が男子同等の能権[#「能権」に「ママ」の注記]を持ち得る事を示したのは、皆此点に*して居ります。良人を送り、同胞を送った女性に、今まで持たなかった力が奇蹟的に湧いたのでない事を私共は考えなければなりません。人は、米国婦人の見識ある事、教養のある事、経済思想、政治的思想に豊富な事を挙げて日本婦人の智的貧弱さを比較致します。
 けれども、其なら其等米国婦人の優越は何処から来たものでございましょう。何が彼女等をそうさせたのでございましょう。人は、教育が高いからだと申します。如何にも、物質的に豊饒である米国は、教育機関をより自由に、より完全に運転致して居ります。けれども、或機関があると云う事は、只其のみで齎らさるべき結果の価値を定めるものではございません。幾何の大学が在り、幾種の専門学校があったとしても、若し其に依って開発されて行くべき女性が、彼女等の価値を認められて居なかったら如何うでございましょう。男性と同等の教育をうくべきものであると云う公衆の理解がなければ如何うでございましょう。
 女性が人として存在を認められない場合、一般の婦人界が、人類の線上まで浮び上る事は出来ないのでございます。
 私は、米国婦人の伸張された権利と、知識との価値を肯定すると共に、其等は悉く、彼女等が、人類として愛され、人類として尊重され鞭撻されるからだと申さずには居られないのでございます。
 けれども、私が斯う申すと、きっと或人は反駁して、「私はお前の云う通り、女性を高い位地にまで上げて認めようと為る、又認めたいと思う。従って教育も男子と同等にさせてやり度いとも思う。然し考えて見なさい、日本の女性の裡に幾人、大学教育を受け得、又受けようとする婦人があるか、彼女等は自分で希わないのだ、希わないものに何故無理にもやらなければならないのか、豚に真珠だ。」と申すかも知れません。
 そうでございましょう。私は厭でも、大多数の女性が、彼女等の生命に無残な殺戮を加えて尚平然として居るのを見ます。けれども、其の原因をもう少し深く考えないでよろしいのでございましょうか? 教育者の或者は、自ら女性の為に叫ぶべき位置にありながら、利己的保守を致します。女性が私の最も厭う「私は女だから」と申す遁辞に巣喰う事を奨励致します。教育者が、小学校時代から、女性を性的生活以外の範囲に踏み出させない狭隘な教育の※[#「木+窄」、読みは「しめ」、163-4]木に掛けて、憐れにも生気を失った青年女子を育て上げて置きながら、其に向って、其那お前は価値が無いと冷酷にも批判するのは、余り無思慮ではございますまいか。男性が長い間の内に女性に加えた圧迫は、彼女等の発達を阻止して仕舞いました。其でありながら其の原因を蒔いた者が、女性の無智を侮蔑するのは、丁度自分の背後を自らの剣で刺すようなものではございますまいか、恐るべき因果でございます。女性が無言の裡に流した涙を今は男子が、愛すべき価値、信頼すべき伴侶を見出し得ない苦痛に依って流さなければならないのでございます。私は、自ら女性の為に心を痛めます、悲しいと存じます。が、其と同時に男子の為にも悲しみます。無智な母親は、又無智な次の時代を産みますでしょう。時代が、或事件に依って、激変を来たそうとして居る時、変転する文明を理解し得ない女性の存在は恐るべきものでございます。
 私は、真個に真心から、もっと、もっと自分の仲間が力に満ちた、広やかな頭脳と胸とを以て生活する事を、其に対する憧憬と努力とをもっと切実にする事を希望致します。私は自分の目の届く限り、心の思い得る限りの女性が、深い愛と、深い叡智によって、世界を薫しくする事を願うのでございます。
 C先生、斯様にして心に満ちて来る希望と祈願とは、一層此国の婦人の有する権威に羨望を感じさせます。私は、人類として、婦人が、多くの法律的権利を持つ事も、経済的智識を持つ事も政治的権利を持つ事も歓びます。彼女等の生活を忘れない賢さ、其の真剣さにも尊敬を払います。社会の一員として有機的生活を営むと云う意識は、米国婦人に於て殊に強く認められると存じます。此点に於ても彼女等は、私共の持たない、或は持たなかった賢さを持って居るのでございます。
 C先生。
 私は此処までで大体米国婦人の優越点を肯定した積りでございます。私は私共の持たない、若しくは持たされない権威の多くを所有する者、所有する価値ある者として、他意なく彼女等を尊敬致します。又自分等の将来に其等の権能を期待も致します。然し、私は、此からもう一歩進んで、其等種々の優越に就てもう少し深い省察を試みたいと思って居ります。其は私共に、或る力の存在の理論的価値と、実践的価値との間に何等かの逕庭の存する事、並びに、其等のより徹した運用に就て、何等かの教と暗示とを与えて呉れるだろうと思うからなのでございます。

 

        (其五)

 

 C先生。
 考えるべき問題は非常に多く又深刻で、或意味に於ては、私の知識の欠乏と貧弱さとを表白するのみに止まりは仕まいかと云う杞さえございます。然し、或程度まで私は自分の信仰に信頼致します。今自分の斯くあり度い、斯くあるべきだと思う理論的、或は道徳的理想は、其の裡に何等か心直接の響を持つ事を信じます。私が専念に真剣になった時、心に燃え上る焔の明るさに総てを委せて、此を書き続けるのでございます。
 私は先ず、第一米国婦人評に必ず附随する彼女等の「自覚」と申す事に就て考えて見ようと存じます。
 此の自覚と云う文字は、非常に広大な発展の基礎に成って居ると思います。人、及び女として自ら覚めた者こそ、始めて、彼女が人類の一員として奉仕すべき自他の関係を発見し、其に処する力を与えられます。先ず女人として深く力強く呼吸した彼女等が、社会の有機的存在の一員として、人格の独立の為に要求し把掴したのが、法律的並びに政治的権力で、其等を可能ならしめる為に、経済的自覚が著しく日常生活に複雑な影を投げて居るのでございます。
 然し、私共は、先ず何の為に此等の諸権能の享有と云う事が要求されるかを考えて見なければなりません、又何の為に其等が賦与されるかに就ても考えて見なければならないのでございます。此等政治的法律的権利を保有して社会生活の当面に人格的独立を宣言するのは、人格力のよりよき発展とより価値ある生活への誘導を、向上を宣言したと同様の事でございます。人格者としての一女性が、人類の希願へ、何等かの光明を投ずべく、其の自由な活動を可能ならしめん為に、其等社会組織の要とする諸権利を獲得し、又仕ようとするのでございます。喧しい婦人参政権の要求も、若し其が、単に男性が所有して居るのに、同じ人類である女性が賦与されないのは不公平だと云うその一点をのみ原因として要求するのならば、其は余り浅薄でございます。余り反動的動機でございます。其権利を獲得した事に依って、政界に新鮮が与えられ、よりよき暗示を施政者に与え得るが故に、要求されなければならないものではございますまいか。
 女性の自覚は、男性の所有すると同様のものを所有しようとする――一面から申せば何の改造も加えられない現状の模倣――であってはなりません。若し現今、男性の社会生活が認定して居る或権利でも、其の価値が低級である場合には、其の存在を否定する丈の見識がなければなりません。
 私共は落付いて、真剣に、人格的自由と云う事を考えなければなるまいと存じます。教養のない者の破廉恥は、教養ある人格者の同様の行為よりは道徳的責任が軽いのは自明の理論でございます。従って、総ての点に人格の独立的権能を保有する者は、其等の賦与されて居ない者より、其の生活に一番人格者としての責任を負うべきでございます。女性が人格者として社会的権能を所有する事は、よりよい叡智に依って、異性との協力的結果の価値を高める為でございます。人間の裡に在るべき叡智のよりよき、より自由なる発動の為に、飛翔の為に、其の機会を多数に、多種に拡張し保護する権能が要求されるのでございます。私共は其の道程にのみ終始するべきではございません。使用すべき権能に使用されてはなりません。如何程鋭利に研かれた小刀《メス》も其を動かす者の心の力に依って鈍重な木片となる事を私共は知らなければならないのでございます。
 斯様に考えて来ると、私共は、米国女性一般が果して、彼女等の権能を如何程までの反省を以て把持して居るだろうかと思わずには居られません。参政権を賦与された婦人の幾人が目下大統領を困らせ抜いて居る政党関係を知って居りますでしょう。
 女性の名誉と、経済的保障の為に制定された離婚訴訟に関する権利を、如何程の深い、価値ある態度で運用して居りますでしょうか。離婚後の扶助料を以て暗々裡に良人を威嚇しつつ同棲生活を続ける夫人連や、利己的の恥ずべき動機から離婚訴訟を起して、良人の心に致命傷を与えるのみならず、自分の魂にまで泥をかける或種の、数に於て多い夫人達がどうして自覚ある人格者と申せますでしょう。女性の人格者としての価値は決して、同じ昇降器《エレベーター》に乗合わせた男子に脱帽させる、その脱帽と云う形式で付けられるものではございません。
 長い時間がいつか最初の動機の意味も純粋さも失わせて、只一度の形式と化した或礼儀などに固執して、其によって自己の尊厳を感じたり、侮蔑を感じたりするのは、余りに鈍い心の所有者と申さなければなりません。
 けれども、C先生、私は真個に伝習の力の恐ろしさを思わずには居られません。常套の不思議な催眠力を恐れずには居られません。米国婦人が、不用な奢侈品に良人の体中の油汗を搾らせながら、祈祷の文句を誦し、人道の為に、彼女等が殆ど一人として云わない事はない Humanity の為に是非を喧しくするのが一種の常套《コンベンション》であると共に、日本の現代の常套《コンベンション》は女性の経済的独立と称し、職業的自覚と称して、無自覚に価値もない者の使用人《エムプロウウー》と成る事でございます。
 此の種の常套に対して、私共は、此とは全く正反対に、あくまでも保守的な、女性を男子以下の生存として肯定した消極に棲息する一種の常套のある事を発見致します。そして、米国の娘も、又日本の青年女子も、此の二つの両端に彼方へ索かれ此方へ索かれして、迷いに迷った末、終に私の此から申そうとする、最も時間に於て新らしい一つの常套的生活に納まって仕舞います。其は、厨川白村氏が、私の云い度い心持を最もよく表現した文字で書かれた、“Against the Convention of Unconvention”を主張する一群なのでございます。

 

        (其六)

 

 C先生。
 今日の私共を囲繞する社会は、「英雄と神との時代」を過ぎて居ります。
 社会の有機的組織の緊張は、其裡に生存する各箇人に、公衆との相互関係を痛感させます。物質的生存の不安に対する暗示も其に与って力ある事でございますが、現代の公衆の箇分子は、相互に緊縛した相対的関係を忘れる事が出来ません。そして、社会の有機的組織は、箇人の種々雑多な箇性に依って構成されるものではあっても、若し自分が比較的安易に、且つ好結果を得ようとするのには、どうしても、其の相互関係に何等の不調和をも起さない程度に、自らの箇性を馴致する事を、意識無意識に必要と認めるようになります。米国の箇人的教育は、各種の箇性を重んじながら、其の功利主義の伝統的暗示、或は宣伝に依て、箇人的気質が、公衆の不文律に順応して行ける程度の寛和、或は弛緩を加えて居ります。従って、群集の各人は、箇性の力に明かな局限を認める事に馴れ、其の局限の此方でする活動が、結局は夢想でない今日の現実に於て最も有効である事を滲み込まされます。其で、所謂賢明な者は、相当に一般を首肯させる理論を前提として、最も安全な現状維持を主張致します。此の傾向が、“Against the Convention of Unconvention”を称する一群の動機に大きな関係を持って居る事は争われないのでございます。箇性の各種の発動を自由ならしめる為の社会組織は、その物質的圧迫、或は群集の常識的低見の為に、却って伝習的形式の下に尊むべき箇性を従属せしめようと仕兼ねない価値顛倒に陥って居るのでございます。
 私は勿論、前にも其と同様の心持を陳べた通り、或ものを、其が只歴史的存在だからと云うのみで否定したり、或は、単に一般的であるからと云う理由のみで拒絶する、浅薄な反動的態度は肯定する事が出来ません。そう云う態度に出る者の裡の不純さと、粗雑さとに私は心を悦ばす事は出来ません。其等の欠点を反省して、より純真な、より高い価値を持った動機に依って、常套打破を試みようとする意向と努力とが含まれて居れば、私も、Unconvention の持つ常套《コンベンション》に対する反抗を認めますでしょう。然し、此の一群の人々は、此の標語を振りかざして、単に常套に堕した現状維持につくから、私はよろこぶ事が出来ません。白熱した純一な動機から、無意味な、価値の怪しむべき常套を破る丈の心力が乏しい、その魂の無力を、率直に謙虚に承認し得ない虚栄心から構えた理論が私の心を苦しめます。
「無為の聖」が、力の欠乏を装飾する用語になるべきではございません。人類の愛に対する不真実を、哲学的偽瞞で被うのは卑屈でございます。
 私は、現今、米国の女性の生活を非常な勢力で支配して居る此の傾向を打破って、真実な意味に於ての常套打破を期待して居るのでございます。
 反動的衝動であってはなりません。自暴自棄の粗暴であってはなりません。若し其が真の価値批判に於て高価なものであるなら、所謂現代が嘲笑する伝統に晏如として自信ある認定を与えながら、如何に喋々され、絶叫される傾向であっても、其が無価値ならば、最後の唯一人として否定し得る、其の定見が総ての点に欲しいのでございます。
 此を若し私共が持つ事が出来れば、私共は真個に人格者として自由になれます。人格者として保有すべき権能に対して尊敬すべき其の主権者となり得ますでしょう。私は米国の女性が人類の一員として享有する権能の論理的価値を認め、将来によき魂に偉大な光彩を与え得る可能のより多くより確実である事を認めずには居られません。然し、現今の一般が其等権能に対して居る態度は私に満足を与えません。皆道程にのみ即して居ります。或は徒の形骸にのみ虚勢を張って居ります。
 其故、私は未だ米国婦人の獲得した権能を所有しない日本の女性は、其の権能を要求し、獲得し、運用する場合に、より純一で、より高い動機で総ての行為が支配される事を希うのでございます。
 C先生、今もう少しで私は可成予定より長くなった。雑信第二を終ろうと致して居ります。
 此の裡へ、私は兼てから思って居た種々の事を書き込んで仕舞いました。普通、米国の婦人の評される場合に使われる、活気があるとか、愛嬌があるとか申す事は、私は書きませんでした。其等は末端の些事だと存じます。生活の真実の価値は、只快活さと、活動的と云う文字で計られるものではないと存じます。私はいずれに仕ても、生活の根本から洗練された純化されたいのでございます。常套、常套、而して常套と幾重にも重なった裡から、何にも染まらない「そのもの」を見出しとうございます。けれども、C先生、私がよく申上た通り私は自分で、渾一の如何に偉大であり、又如何に至難な事であるかを知って居ります。知って居る事は愛でございます。
 私の米国婦人が権能を持つ事、その事には肯定出来ても、其の運用の不純さに飽き足らず思うのは、此の純一の燃焼への憧憬があるからでございます。
 私が若し仏蘭西《フランス》へ行ったと致しましたなら、拉丁《ラテン》民族の優雅な、理智と感情との調和に必ず心の躍る歓びを感じますでしょう。然し、私は矢張り其裡の不純を感じて、「けれども」と云う何物かを発見せずには居られませんでしょう。
 何処にでも、人間の存在する限りの地上に、此のよかるべきもの、裡に含まれた其の否定があるのでございます。そして其丈の否定が私の心に意識される以上、私自身の裡に、如何程明瞭に、恐ろしい程明瞭に照り返して居るかと申す事は御分りになりますでしょう、皆の努力でございます。各自の心が、真剣に鞭撻し沈思すべき一生の問題でございます。私は、総ての魂の上に、よき沈思と、燃焼と而して飛躍とを祈って筆を擱きます。
[#地から4字上げ]一九一九年八月二十六日
[#地から2字上げ]レークジョージにて。

 

       雑信(第三)

 

        (其一)

 

 C先生。
 其方《そちら》は如何でございますか、此の紐育《ニューヨーク》から二百|哩《マイル》程隔った湖畔は、近頃殆ど毎日の雨に降り籠められて居ります。或時は、俄に山巓を曇らせて降り注ぐ驟雨に洗われ、或時はじめじめと陰鬱な細雨に濡れて、夏の光輝は何時となく自然の情景の裡から消去ったようにさえ見えます。瑞々しい森林は緑に鈍い茶褐色を加え、雲の金色の輪廓は、冷たい灰色に換ります。そして朝から晩まで、一重に物懶く引延ばした雲の彼方から僅かに余光を洩す太陽の下に、まるで陰翳と云うものの無い万物を見るのは淋しゅうございます。五月の末に此方に来た時は、紫紅色の房々としたライラックがまだ蕾勝ちで、素朴な林檎の花盛りでございました。其からぐんぐんと延び育った熾な夏は僅か二箇月でもう褪せようと仕て居ります。私が大きな楡の樹蔭の三階で、段々|近眼《ちかめ》に成りながら、緩々と物を書き溜めて居るうちに、自然は確実な流転を続けて居ります。今も恐るべき単調さで降りしきって居る雨が晴れたら、地上はきっともう秋に成って居りますでしょう、雨が好きな私も、毎日毎日同じ水気と灰色とで溺れたような景物を眺め暮すのは、少し飽き飽きした心持が致します。――
 C先生。
 もう三時間許り前、私は此処まで陰気な机に向って書き進めました。けれども、余り気分が冴えないで若し其儘進んだら如何那に物懶いものが出来上るか分らないと思ったので、其処まで書いてペンを擱いて仕舞いました。そして暫くの間或雑誌に出て居る、日露戦争当時 Peace Maker として働いたルーズベルトを中心として各国が往復した手紙を読みました。(此は余談ではございますが、当時大統領だったルーズベルトを中心にして、動いた各国王、特に露、独の心持は人間の生活の一断面として面白うございます。非常に面白うございます。不幸な露国皇帝が彼の死を死んだ運命の尖端《きっさき》は、非常に微細な片言の裡に変形して現われて居ります。)
 其から御飯を食べ、又少し本を見て、今改めて机に向った私は、もうすっかり先刻の重圧からは脱して、活気に満ちた心と、頭とを持って居ります。本が面白かった許りではなく、僅かな時の間に、彼程退屈だった雨が急に晴れ上って呉れた事がすっかり私の気分を明るく仕たのでございます。
 澱んで居た雲が徐々に動き始めました。絶壁のように厚い雲の割目から爽やかな水浅黄の空が覗いて、洗われた日光がチラつく金粉を撒き始めます。此の軽い大気! 先生、うんざりする雨の後に、急に甦って輝く森林や湖水、其等の上に躍る日光は、何と云う美くしさでございましょう。水溜を跳び越えながら、一寸頭を擡げて空を仰ぐ若い女の影。馳け廻る犬の愉快な※[#「鼻+臭」、第4水準2-94-73]《スニッフ》。
 陰影が出来、光輝を与えられて漸々立体的になった万物は始めて生きたものらしい活気を盛り始めました。体中の毛穴から、一時に心に迫る新鮮さに浄められたようになって、私はすっかり御機嫌をなおしたのでございます。
 C先生、
 斯うやって物を書いて居る私の窓から瞳を遠く延すと、光る湖面を超えて、対岸の連山と、色絵具で緑に一寸触れたような別荘とが見えます。其等の漠然とした遠景の裡から仄白く光って延びる道路に連れて目を動かすと、村で一番大きな旅舎《ホテル》の伊太利風のパゴラの赤い円屋根と、白い柱列《コーラム》とが瞳に写りますでしょう。レーク・ジョージでは此処一点が、あらゆる華奢と歓楽との焦点になって居るのでございます。
 毎晩九時過ぎると、まだ夜と昼との影を投じ合った鳩羽色の湖面を滑って、或時は有頂天な、或時は優婉な舞踏曲が、漣の畳句《リフレーヌ》を伴れて聞え始めます。すると先刻までは何処に居たのか水音も為せなかった沢山の軽舸《カヌー》が、丁度流れ寄る花弁のように揺れながら、燈影の華やかなパゴラの周囲に漂い始めます。そして、或者は低い口笛に合わせながら、或者は旋律に合わせて巧な櫂を操りながら、時を忘れて、水に浮ぶのでございます。
 C先生、先生は此方《こちら》の人々が愛用するカヌーを御承知でいらっしゃいますでしょう。両端の丸らかに刳上った幅狭の独木舟が、短かい只一本の櫂を運ぶ双手の直線的な運動につれて、スー、スーと湖面を走る様子は真個に素晴らしゅうございます。私は其の軽快な舸と人との姿を如何那に愛しますでしょう。太陽の明るみが何時か消えて、西岸に聳えるプロスペクト山の頂に見馴れた一つ星が青白く輝き出すと、東の山の端はそろそろと卵色に溶け始めます。けれども、支えて放たれない光りを背に据えた一連の山々は、背後の光輝が愈々増すにつれて、刻一刻とその陰影を深めて参ります。そして、宛然《まるで》蹲る大獣のように物凄い黒色が仄明るい空を画ると、漸々その極度の暗黒を破って、生みたての卵黄のように、円らかにも美くしい月が現われるのでございます。真個に、つるりと一嚥にして仕舞い度い程真丸で、つるつると笑みかけた黄金色《きんいろ》のお月様! 黄金色《きんいろ》のお月様!
 此那晩、私共は到底じっと部屋に居る事は出来ません。露の置いた草原を歩み踰えて、古い楊柳の下に繋いだ小舟を解くと、力まかせ水の面を馳け廻ります。子供が大喜びの呼声を上げて野原を馳けるように、我を忘れた嬉しさで櫂を動すのでございます。先生、先生は、月夜に立ちのぼる水の、不思議に蠱惑的な薫りを御存じでございますか、扁平な櫂に当って転げる水玉の、水晶を打つ繊細な妙音を御存じでございますか。――
 けれども、自然は決して単調な議事ではございません。時には息もつまるような大暴風雨で、小さい人間共の魂を、いやと云う程打ちのめす事もあるのでございます。

 

        (其二)

 

 C先生。
 東西を連山で囲まれた湖畔は、非常に天候が不定でございます。今のように朗らかに晴れ渡った空も、決して夜の快晴の予言ではございません。山並の彼方から、憤りのようにムラムラと湧いた雲が、性急な馳足で鈍重な湖面を圧包むと、もう私共は真個に暗紅の火花を散らす稲妻を眺めながら、逆落《さかおと》しの大雨を痛い程体中に浴びなければなりません。其の驟雨は、いつも彼方にのっしりと居坐ったプロスペクト山が、霞むような霧に姿を消す事を第一の先駆として居るのでございます。
 此のプロスペクト山は、近傍で一番高い山であるのみならず、五十年程前に、何処かの金持が麓から電車を通して、頂上に壮大な遊楽場を設けたので有名になって居ります。元はきっと、如何那にか熾な場所だったのでございましょう。けれども今はもうすっかり廃跡になって、崩れた舞踏場の傍に、小さい小屋掛けをした老人の山番が、犬を一匹友達にして棲んで居る限りでございます。きっと、金持連の世間から隔った享楽場として、余り大業な騒ぎかたが却って衰退を早めたのでございましょう。今でも腐った軌道や枕木が、灌木や羊歯の茂った阪道に淋しく転って居ります。頂上には、其等の廃跡の外に、一軒不思議な建物があるそうでございます。真四角な石造で、窓が高く小さく只一つの片目のようについて居る、気味が悪いと見た人が申しました。何でございましょう。此間、頂上まで登って見たいと思って切角出かけたのに途中で駄目になって仕舞いました。平地の健脚は、決して石ころの山道で同様の威厳を持ち得ない事を発見致しました。
 紐育あたりから遊びに来て居ります人々でも、矢張り私と余り違わない程度と見えて、深い山等へ出かける者は少うございます。従って朝夕、美くしく着飾った女達が、都会に居るよりもっと気取って、もっと富有らしい歩調で散策する距離は、僅か一哩半位の、村道に限られて居るような形でございます。其の古い楓が緑を投げる街路樹の下を、私共は透き通る軽羅《うすもの》に包まれて、小鳥のように囀りながら歩み去る女を見る事が出来ます。しなしなと微風に撓む帽子飾の陰から房毛をのぞかせて、笑いながら扇を上げる女性の媚態も見られます。
 けれども此村は只其丈の単純さではございません。女達が華やかに笑いさざめいて行き交う街道の一重彼方には、まるで忘られたような、祖先のインディアンが、黒い着物に包まれて、森の中に暮して居ります。「女王」のお靴を磨きお髪《ぐし》あげをする黒坊の群も居ります。るろうの伊太利人は、バンジョーを胸から提げて道傍に立ちます。此の細長い、戸数の僅かな村でありながら、其の木の陰や森の彼方には、種々雑多な人種が、各自の力限りの生活を営んで居るのでございます。
 此頃は殆ど毎日のように問題となって居る黒白人種の争闘は、心を苦しめます。今度の大戦で、欧州に出征した黒人は、楽しんで還った故国に非常な失望と、憤懣とを感じて居りますでしょう。独逸《ドイツ》人は不正な、人類、人道主義の敵であるから殺せと命じられて来た彼等は、帰って来た土地で、同様の不正と、逆徳とを発見致します。彼等の行為が不正であると云うが故に独逸人は懲罰として死を与えられた。其だのに何故自分等は、全く同様の不正の下に、沈黙を守って屈従して居なければならないのか? 独逸人に向ってのみ人道主義は説かれるべきなのだろうか? 相当の頭を持った者は皆、皮肉な、一面から云うと、デスペレートな気分で此等の疑問を抱いて居ります。仏蘭西に行った者は、仏蘭西人を、より人間らしい人間として愛して居ります。ベルジュームに行った者は、ベルジュームの心を感じて居ります。
 然し、インディアンに比較して、私共は彼等が楽天的な傾向を持って居る事を、寧ろ不思議と思う位でございます。
 往来で擦れ違う彼等を御覧遊ばせ、黒人の娘は華やかな胸着《ベスティー》を附け、流行の帽子を戴いて笑い興じながら行き過ぎます。然し、中高な引しまった表情を、淋しげに亜麻色の髪の下に浮べたインディアンの娘は、殆ど誰も誰もが、地味な陰気な黒い着物を着て居ります。笑いも致しません。陽気な声で物も申しません。親ゆずりの靴を履いた足音を静かに立てて、彼方の部落へ姿を消して仕舞います。インディアンが、永劫の秋に住して居るような心持に比べて、黒人は、何と云う陽気さでございましょう。
 私は、鼻の丸い、体の大きい、正直な黒人が好きでございます。彼等と話して居ると、心が理屈抜きに正直になります。先生は、大きな米国人よりもっと大きい黒坊の傍で、頭が痛くなる程上を見あげて喋って居る小さい

 

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