海異記

砂山を細く開いた、両方の裾《すそ》が向いあって、あたかも二頭の恐しき獣の踞《うずくま》ったような、もうちっとで荒海へ出ようとする、路《みち》の傍《かたえ》に、崖《がけ》に添うて、一軒漁師の小家《こいえ》がある。
 崖はそもそも波というものの世を打ちはじめた昔から、がッきと鉄《くろがね》の楯《たて》を支《つ》いて、幾億|尋《ひろ》とも限り知られぬ、潮《うしお》の陣を防ぎ止めて、崩れかかる雪のごとく鎬《しのぎ》を削る頼母《たのも》しさ。砂山に生え交《まじ》る、茅《かや》、芒《すすき》はやがて散り、はた年ごとに枯れ果てても、千代《ちよ》万代《よろずよ》の末かけて、巌《いわお》は松の緑にして、霜にも色は変えないのである。
 さればこそ、松五郎。我が勇《いさま》しき船頭は、波打際の崖をたよりに、お浪という、その美しき恋女房と、愛らしき乳児《ちのみ》を残して、日ごとに、件《くだん》の門《かど》の前なる細路へ、衝《つ》とその後姿、相対《あいむか》える猛獣の間に突立《つった》つよと見れば、直ちに海原《うなばら》に潜《くぐ》るよう、砂山を下りて浜に出て、たちまち荒海を漕《こ》ぎ分けて、飛ぶ鴎《かもめ》よりなお高く、見果てぬ雲に隠るるので。
 留守はただ磯《いそ》吹く風に藻屑《もくず》の匂《にお》いの、襷《たすき》かけたる腕《かいな》に染むが、浜百合の薫《かおり》より、空燻《そらだき》より、女房には一際《ひときわ》床《ゆか》しく、小児《こども》を抱いたり、頬摺《ほおずり》したり、子守唄うとうたり、つづれさしたり、はりものしたり、松葉で乾物《ひもの》をあぶりもして、寂しく今日を送る習い。
 浪の音には馴《な》れた身も、鶏《とり》の音《ね》に驚きて、児《こ》と添臥《そいぶし》の夢を破り、門《かど》引《ひ》きあけて隈《くま》なき月に虫の音の集《すだ》くにつけ、夫恋しき夜半《よわ》の頃、寝衣《ねまき》に露を置く事あり。もみじのような手を胸に、弥生《やよい》の花も見ずに過ぎ、若葉の風のたよりにも艪《ろ》の声にのみ耳を澄ませば、生憎《あやにく》待たぬ時鳥《ほととぎす》。鯨の冬の凄《すさま》じさは、逆巻き寄する海の牙《きば》に、涙に氷る枕《まくら》を砕いて、泣く児を揺《ゆす》るは暴風雨《あらし》ならずや。
 母は腕《かいな》のなゆる時、父は沖なる暗夜の船に、雨と、波と、風と、艪と、雲と、魚と渦巻く活計《なりわい》。
 津々浦々到る処、同じ漁師の世渡りしながら、南は暖《あたたか》に、北は寒く、一条路《ひとすじみち》にも蔭日向《かげひなた》で、房州も西向《にしむき》の、館山《たてやま》北条とは事かわり、その裏側なる前原、鴨川《かもがわ》、古川、白子《しらこ》、忽戸《ごっと》など、就中《なかんずく》、船幽霊《ふなゆうれい》の千倉が沖、江見和田などの海岸は、風に向いたる白帆の外には一重《ひとえ》の遮るものもない、太平洋の吹通し、人も知ったる荒磯海《ありそうみ》。
 この一軒屋は、その江見の浜の波打際に、城の壁とも、石垣とも、岸を頼んだ若木の家造《やづく》り、近ごろ別家をしたばかりで、葺《ふ》いた茅《かや》さえ浅みどり、新藁《しんわら》かけた島田が似合おう、女房は子持ちながら、年紀《とし》はまだ二十二三。
 去年ちょうど今時分、秋のはじめが初産《ういざん》で、お浜といえば砂《いさご》さえ、敷妙《しきたえ》の一粒種《ひとつぶだね》。日あたりの納戸に据えた枕蚊帳《まくらがや》の蒼《あお》き中に、昼の蛍の光なく、すやすやと寐入《ねい》っているが、可愛らしさは四辺《あたり》にこぼれた、畳も、縁も、手遊《おもちゃ》、玩弄物《おもちゃ》。
 犬張子《いぬはりこ》が横に寝て、起上り小法師《こぼし》のころりと坐《すわ》った、縁台に、はりもの板を斜めにして、添乳《そえぢ》の衣紋《えもん》も繕わず、姉《あね》さんかぶりを軽《かろ》くして、襷《たすき》がけの二の腕あたり、日ざしに惜気《おしげ》なけれども、都育ちの白やかに、紅絹《もみ》の切《きれ》をぴたぴたと、指を反らした手の捌《さば》き、波の音のしらべに連れて、琴の糸を辿《たど》るよう、世帯染みたがなお優しい。
 秋日和の三時ごろ、人の影より、黍《きび》の影、一つ赤蜻蛉《あかとんぼ》の飛ぶ向うの畝《あぜ》を、威勢の可《い》い声。
「号外、号外。」

 

       二

 

「三ちゃん、何の号外だね、」
 と女房は、毎日のように顔を見る同じ漁場《りょうば》の馴染《なじみ》の奴《やっこ》、張《はり》ものにうつむいたまま、徒然《つれづれ》らしい声を懸ける。
 片手を懐中《ふところ》へ突込《つっこ》んで、どう、してこました買喰《かいぐい》やら、一番蛇を呑《の》んだ袋を懐中《ふところ》。微塵棒《みじんぼう》を縦にして、前歯でへし折って噛《かじ》りながら、縁台の前へにょっきりと、吹矢が当って出たような福助頭に向う顱巻《はちまき》。少兀《すこはげ》の紺の筒袖《つつそで》、どこの媽々衆《かかあしゅう》に貰《もら》ったやら、浅黄《あさぎ》の扱帯《しごき》の裂けたのを、縄に捩《よ》った一重《ひとえ》まわし、小生意気に尻下《しりさが》り。
 これが親仁《おやじ》は念仏爺《ねんぶつじじい》で、網の破れを繕ううちも、数珠《じゅず》を放さず手にかけながら、葎《むぐら》の中の小窓の穴から、隣の柿の木、裏の屋根、烏をじろりと横目に覗《のぞ》くと、いつも前はだけの胡坐《あぐら》の膝《ひざ》へ、台尻重く引つけ置く、三代相伝の火縄銃、のッそりと取上げて、フッと吹くと、ぱッと立つ、障子のほこりが目に入って、涙は出ても、狙《ねらい》は違えず、真黒《まっくろ》な羽をばさりと落して、奴《やっこ》、おさえろ、と見向《みむき》もせず、また南無阿弥陀《なむあみだ》で手内職。
 晩のお菜《かず》に、煮たわ、喰ったわ、その数三万三千三百さるほどに爺《じい》の因果が孫に報《むく》って、渾名《あだな》を小烏《こがらす》の三之助、数え年十三の大柄な童《わっぱ》でござる。
 掻垂《かきた》れ眉を上と下、大きな口で莞爾《にっこり》した。
「姉様《あねさん》、己《おら》の号外だよ。今朝、号外に腹が痛んだで、稲葉丸さ号外になまけただが、直きまた号外に治っただよ。」
「それは困ったねえ、それでもすっかり治ったの。」と紅絹切《もみぎれ》の小耳を細かく、ちょいちょいちょいと伸《のば》していう。
「ああ号外だ。もう何ともありやしねえや。」
「だって、お前さん、そんなことをしちゃまたお腹が悪くなるよ。」
「何をよ、そんな事ッて。なあ、姉様《あねさん》、」
「甘いものを食べてさ、がりがり噛《かじ》って、乱暴じゃないかねえ。」
「うむ、これかい。」
 と目を上《うわ》ざまに細うして、下唇をぺろりと嘗《な》めた。肩も脛《すね》も懐も、がさがさと袋を揺《ゆす》って、
「こりゃ、何よ、何だぜ、あのう、己《おら》が嫁さんに遣《や》ろうと思って、姥《おんば》が店で買って来たんで、旨《うま》そうだから、しょこなめたい。たった一ツだな。みんな嫁さんに遣るんだぜ。」
 とくるりと、はり板に並んで向《むき》をかえ、縁側に手を支《つ》いて、納戸の方を覗《のぞ》きながら、

「やあ、寝てやがら、姉様《あねさん》、己《おら》が嫁さんは寝《ねん》ねかな。」
「ああ、今しがた昼寝をしたの。」
「人情がないぜ、なあ、己《おら》が旨いものを持って来るのに。
 ええ、おい、起きねえか、お浜ッ児《こ》。へ、」
 とのめずるように頸《うなじ》を窘《すく》め、腰を引いて、
「何にもいわねえや、蠅《はえ》ばかり、ぶんぶんいってまわってら。」
「ほんとに酷《ひど》い蠅ねえ、蚊が居なくッても昼間だって、ああして蚊帳へ入れて置かないとね、可哀《かわい》そうなように集《たか》るんだよ。それにこうやって糊《のり》があるもんだからね、うるさいッちゃないんだもの。三ちゃん、お前さんの許《とこ》なんぞも、やっぱりこうかねえ、浜へはちっとでも放れているから、それでも幾干《いくら》か少なかろうねえ。」
「やっぱり居ら、居るどころか、もっと居ら、どしこと居るぜ。一つかみ打捕《ふんづかめ》えて、岡田螺《おかだにし》とか何とかいって、お汁《つけ》の実にしたいようだ。」
 とけろりとして真顔にいう。

 

       三

 

 こんな年していうことの、世帯じみたも暮向《くらしむ》き、塩焼く煙も一列《ひとつら》に、おなじ霞《かすみ》の藁屋《わらや》同士と、女房は打微笑《うちほほえ》み、
「どうも、三ちゃん、感心に所帯じみたことをおいいだねえ。」
 奴《やっこ》は心づいて笑い出し、
「ははは、所帯じみねえでよ、姉《あね》さん。こんのお浜ッ子が出来てから、己《おら》なりたけ小遣《こづかい》はつかわねえ。吉や、七と、一銭《いちもん》こを遣《や》ってもな、大事に気をつけてら。玩弄物《おもちゃ》だのな、飴《あめ》だのな、いろんなものを買って来るんだ。」
 女房は何となく、手拭《てぬぐい》の中《うち》に伏目《ふしめ》になって、声の調子も沈みながら、
「三ちゃんは、どうしてそんなだろうねえ。お前さんぐらいな年紀恰好《としかっこう》じゃ、小児《こども》の持っているものなんか、引奪《ひったく》っても自分が欲《ほし》い時だのに、そうやってちっとずつ皆《みんな》から貰《もら》うお小遣で、あの児《こ》に何か買ってくれてさ。姉《ねえ》さん、しみじみ嬉しいけれど、ほんとに三ちゃん、お前さん、お食《あが》りなら可《い》い、気の毒でならないもの。」
 奴《やっこ》は嬉しそうに目を下げて、
「へへ、何、ねえだよ、気の毒な事はちっともねえだよ。嫁さんが食べる方が、己《おら》が自分で食べるより旨《うま》いんだからな。」
「あんなことをいうんだよ。」
 と女房は顔を上げて莞爾《にっこり》と、
「何て情があるんだろう。」
 熟《じっ》と見られて独《ひとり》で頷《うなず》き、
「だって、男は誰でもそうだぜ。兄哥《あにや》だってそういわあ。船で暴風雨《あらし》に濡れてもな、屋根代の要らねえ内で、姉《あね》さんやお浜ッ児《こ》が雨露に濡れねえと思や、自分が寒い気はしねえとよ。」
「嘘ばッかり。」
 と対手《あいて》が小児《こども》でも女房は、思わずはっと赧《あか》らむ顔。
「嘘じゃねえだよ、その代《かわり》にゃ、姉さんもそうやって働いてるだ。

 なあ姉さん、己《おら》が嫁さんだって何だぜ、己が漁に出掛けたあとじゃ、やっぱり、張《はり》ものをしてくんねえじゃ己|厭《いや》だぜ。」
「ああ、しましょうとも、しなくってさ、おほほ、三ちゃん、何を張るの。」
「え、そりゃ、何だ、またその時だ、今は着たッきりで何にもねえ。」
 と面くらった身のまわり、はだかった懐中《ふところ》から、ずり落ちそうな菓子袋を、その時縁へ差置くと、鉄砲玉が、からからから。
「号外、号外ッ、」と慌《あわただ》しく這身《はいみ》で追掛けて平手で横ざまにポンと払《はた》くと、ころりとかえるのを、こっちからも一ツ払いて、くるりとまわして、ちょいとすくい、
「は、」
 とかけ声でポンと口。
「おや、御馳走様《ごちそうさま》ねえ。」
 三之助はぐッと呑《の》んで、
「ああ号外、」と、きょとりとする。
 女房は濡れた手をふらりとさして、すッと立った。
「三ちゃん。」
「うむ、」
「お前さん、その三尺は、大層色気があるけれど、余りよれよれになったじゃないか、ついでだからちょいとこの端へはっておいて上げましょう。」
「何こんなものを。」
 とあとへ退《すさ》り、

「いまに解きます繻子《しゅす》の帯……」
 奴《やっこ》は聞き覚えの節になり、中音でそそりながら、くるりと向うむきになったが早いか、ドウとしたたかな足踏《あしぶみ》して、
「わい!」
 日向《ひなた》へのッそりと来た、茶の斑犬《ぶち》が、びくりと退《すさ》って、ぱっと砂、いや、その遁《に》げ状《ざま》の慌《あわただ》しさ。

 

       四

 

「状《ざま》を見ろ、弱虫め、誰だと思うえ、小烏の三之助だ。」
 と呵々《からから》と笑って大得意。
「吃驚《びっくり》するわね、唐突《だしぬけ》に怒鳴ってさ、ああ、まだ胸がどきどきする。」
 はッと縁側に腰をかけた、女房は草履の踵《かかと》を、清くこぼれた褄《つま》にかけ、片手を背後《うしろ》に、あらぬ空を視《なが》めながら、俯向《うつむ》き通しの疲れもあった、頻《しきり》に胸を撫擦《なでさす》る。
「姉《あね》さんも弱虫だなあ。東京から来て大尽のお邸《やしき》に、褄を引摺《ひきず》っていたんだから駄目だ、意気地はねえや。」
 女房は手拭を掻《か》い取ったが、目《ま》ぶちのあたりほんのりと、逆上《のぼ》せた耳にもつれかかる、おくれ毛を撫でながら、
「厭《いや》な児《こ》だよ、また裾《すそ》を、裾をッて、お引摺りのようで人聞きが悪いわね。」
「錦絵《にしきえ》の姉様《あねさま》だあよ、見ねえな、皆《みんな》引摺ってら。」
「そりゃ昔のお姫様さ。お邸は大尽の、稲葉様の内だって、お小間づかいなんだもの、引摺ってなんぞいるものかね。」
「いまに解きます繻子《しゅす》の帯とけつかるだ。お姫様だって、お小間使だって、そんなことは構わねえけれど、船頭のおかみさんが、そんな弱虫じゃ不可《いけ》ねえや、ああ、お浜ッ児《こ》はこうは育てたくないもんだ。」と、機械があって人形の腹の中で聞えるような、顔には似ない高慢さ。
 女房は打笑みつつ、向直って顔を見た。
「ほほほ、いうことだけ聞いていると、三ちゃんは、大層強そうだけれど、その実意気地なしッたらないんだもの、何よ、あれは?」
「あれはッて?」と目をぐるぐる。
「だって、源次さん千太さん、理右衛門爺《りえもんじい》さんなんかが来ると……お前さん、この五月ごろから、粋《いき》な小烏といわれないで、ベソを掻いた三之助だ、ベソ三だ、ベソ三だ。ついでに鯔《ぼら》と改名しろなんて、何か高慢な口をきく度に、番ごと籠《こ》められておいでじゃないか。何でも、恐《こわ》いか、辛いかしてきっと沖で泣いたんだよ。この人は、」とおかしそうに正向《まむき》に見られて、奴《やっこ》は、口をむぐむぐと、顱巻《はちまき》をふらりと下げて、
「へ、へ、へ。」と俯向いて苦笑い。
「見たが可《い》い、ベソちゃんや。」

 と思わず軽く手をたたく。
「だって、だって、何だ、」
 と奴《やっこ》は口惜《くや》しそうな顔色で、
「己《おら》ぐらいな年紀《とし》で、鮪船《まぐろぶね》の漕《こ》げる奴《やつ》は沢山《たんと》ねえぜ。
 ここいらの鼻垂《はなったら》しは、よう磯《いそ》だって泳げようか。たかだか堰《せき》でめだかを極《き》めるか、古川の浅い処で、ばちゃばちゃと鮒《ふな》を遣《や》るだ。
 浪打際といったって、一畝《ひとうね》り乗って見ねえな、のたりと天上まで高くなって、嶽《たけ》の堂は目の下だ。大風呂敷の山じゃねえが、一波越すと、谷底よ。浜も日本も見えやしねえで、お星様が映りそうで、お太陽様《てんとうさま》は真蒼《まっさお》だ。姉《あね》さん、凪《なぎ》の可《い》い日でそうなんだぜ。
 処を沖へ出て一つ暴風雨《しけ》と来るか、がちゃめちゃの真暗《まっくら》やみで、浪だか滝だか分らねえ、真水と塩水をちゃんぽんにがぶりと遣っちゃ、あみの塩からをぺろぺろとお茶の子で、鼻唄を唄うんだい、誰が沖へ出てベソなんか。」
 と肩を怒らして大手を振った、奴《やっこ》、おまわりの真似《まね》して力む。
「じゃ、何《なん》だって、何だってお前、ベソ三なの。」
「うん、」
 たちまち妙な顔、けろけろと擬勢の抜けた、顱巻《はちまき》をいじくりながら、
「ありゃね、ありゃね、へへへ、号外だ、号外だ。」

 

       五

 

「あれさ、ちょいと、用がある、」
 と女房は呼止める。
 奴《やっこ》は遁《に》げ足を向うのめりに、うしろへ引かれた腰附《こしつき》で、
「だって、号外が忙しいや。あ、号外ッ、」
「ちょいと、あれさ、何だよ、お前、お待《まち》ッてばねえ。」
 衝《つ》と身を起こして追おうとすると、奴《やっこ》は駈出《かけだ》した五足《いつあし》ばかりを、一飛びに跳ね返って、ひょいと踞《しゃが》み、立った女房の前垂《まえだれ》のあたりへ、円い頤《あご》、出額《おでこ》で仰いで、
「おい、」という。
 出足へ唐突《だしぬけ》に突屈《つッかが》まれて、女房の身は、前へしないそうになって蹌踉《よろめ》いた。
「何だねえ、また、吃驚《びっくり》するわね。」
「へへへ、番ごとだぜ、弱虫やい。」
「ああ、可《い》いよ、三ちゃんは強うございますよ、強いからね、お前は強いからそのベソを掻いたわけをお話しよ。」
「お前は強いからベソを掻いたわけ、」と念のためいってみて、瞬《またたき》した、目が渋そう。
「不可《いけ》ねえや、強いからベソをなんて、誰が強くってベソなんか掻くもんだ。」
「じゃ、やっぱり弱虫じゃないか。」
「だって姉《あね》さん、ベソも掻かざらに。夜一夜《よっぴて》亡念の火が船について離れねえだもの。理右衛門《りえむ》なんざ、己《おら》がベソをなんていう口で、ああ見えてその時はお念仏唱えただ。」と強がりたさに目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》る。
 女房はそれかあらぬか、内々|危《あやぶ》んだ胸へひしと、色変るまで聞咎《ききとが》め、

「ええ、亡念の火が憑《つ》いたって、」
「おっと、……」
 とばかり三之助は口をおさえ、
「黙ろう、黙ろう、」と傍《わき》を向いた、片頬《かたほ》に笑《えみ》を含みながら吃驚《びっくり》したような色である。
 秘《かく》すほどなお聞きたさに、女房はわざとすねて見せ、
「可《い》いとも、沢山《たんと》そうやってお秘しな。どうせ、三ちゃんは他人だから、お浜の婿さんじゃないんだから、」
 と肩を引いて、身を斜め、捩《ねじ》り切りそうに袖《そで》を合わせて、女房は背向《そがい》になンぬ。
 奴《やっこ》は出る杭《くい》を打つ手つき、ポンポンと天窓《あたま》をたたいて、
「しまった! 姉《あね》さん、何も秘すというわけじゃねえだよ。
 こんの兄哥《あにき》もそういうし、乗組んだ理右衛門|徒《でえ》えも、姉さんには内証にしておけ、話すと恐怖《こわ》がるッていうからよ。」
「だから、皆《みんな》で秘すんだから、せめて三ちゃんが聞かせてくれたって可《い》じゃないかね。」
「むむ、じゃ話すだがね、おらが饒舌《しゃべ》ったって、皆《みんな》にいっちゃ不可《いけね》えだぜ。」
「誰が、そんなことをいうもんですか。」
「お浜ッ児《こ》にも内証だよ。」
 と密《そっ》と伸上ってまた縁側から納戸の母衣蚊帳《ほろがや》を差覗《さしのぞ》く。
「嬰児《あかんぼ》が、何を知ってさ。」

「それでも夢に見て魘《うな》されら。」
「ちょいと、そんなに恐怖《こわ》い事なのかい。」と女房は縁の柱につかまった。
「え、何、おらがベソを掻いて、理右衛門が念仏を唱えたくらいな事だけんども。そら、姉《あね》さん、この五月、三日流しの鰹船《かつおぶね》で二晩沖で泊ったっけよ。中の晩の夜中の事だね。
 野だも山だも分ンねえ、ぼっとした海の中で、晩《おそ》めに夕飯を食ったあとでよ。
 昼間ッからの霧雨がしとしと降りになって来たで、皆《みんな》胴の間《ま》へもぐってな、そん時に千太どんが漕《こ》がしっけえ。
 急に、おお寒い、おお寒い、風邪《かぜ》揚句《あげく》だ不精しょう。誰ぞかわんなはらねえかって、艫《とも》からドンと飛下りただ。
 船はぐらぐらとしただがね、それで止まるような波じゃねえだ。どんぶりこッこ、すっこッこ、陸《おか》へ百里やら五十里やら、方角も何も分らねえ。」
 女房は打頷《うちうなず》いた襟さみしく、乳《ち》の張る胸をおさえたのである。

 

       六

 

「晩飯の菜に、塩からさ嘗《な》め過ぎた。どれ、糠雨《ぬかあめ》でも飲むべい、とってな、理右衛門《りえむ》どんが入交《いれか》わって漕《こ》がしつけえ。
 や、おぞいな千太、われ、えてものを見て逃げたな。と艫《とも》で爺《じッ》さまがいわっしゃるとの、馬鹿いわっしゃい、ほんとうに寒気がするだッて、千太は天窓《あたま》から褞袍《どてら》被《かぶ》ってころげた達磨《だるま》よ。
 ホイ、ア、ホイ、と浪の中で、幽《かすか》に呼ばる声がするだね。
 どこからだか分ンねえ、近いようにも聞えれば、遠いようにも聞えるだ。
 来やがった、来やがった、陽気が悪いとおもったい! おらもどうも疝気《せんき》がきざした。さあ、誰ぞ来てやってくれ、ちっと踞《しゃが》まねえじゃ、筋張ってしょ事がない、と小半時《こはんとき》でまた理右衛門|爺《じい》さまが潜っただよ。
 われ漕《こ》げ、頭痛だ、汝《きさま》漕げ、脚気《かっけ》だ、と皆《みんな》苦い顔をして、出人《でて》がねえだね。
 平胡坐《ひらあぐら》でちょっと磁石さ見さしつけえ、此家《ここ》の兄哥《あにや》が、奴《やっこ》、汝《てめえ》漕げ、といわしったから、何の気もつかねえで、船で達者なのは、おらばかりだ、おっとまかせ。」と、奴《やっこ》は顱巻《はちまき》の輪を大きく腕いっぱいに占める真似して、
「いきなり艫《とも》へ飛んで出ると、船が波の上へ橋にかかって、雨で辷《すべ》るというもんだ。
 どッこいな、と腰を極《き》めたが、ずッしりと手答えして、槻《けやき》の大木根こそぎにしたほどな大《おおき》い艪《ろ》の奴《やつ》、のッしりと掻いただがね。雨がしょぼしょぼと顱巻に染みるばかりで、空だか水だか分らねえ。はあ、昼間見る遠い処の山の上を、ふわふわと歩行《ある》くようで、底が轟々《ごうごう》と沸《に》えくり返るだ。
 ア、ホイ、ホイ、アホイと変な声が、真暗《まっくら》な海にも隅があってその隅の方から響いて来ただよ。
 西さ向けば、西の方、南さ向けば南の方、何でもおらがの向いた方で聞えるだね。浪の畝《うね》ると同一《おんなじ》に声が浮いたり沈んだり、遠くなったりな、近くなったり。
 その内ぼやぼやと火が燃えた。船から、沖へ、ものの十四五町と真黒《まっくろ》な中へ、ぶくぶくと大きな泡が立つように、ぼッと光らあ。
 やあ、火が点《とも》れたいッて、おらあ、吃驚《びっくり》して喚《わめ》くとな、……姉《あね》さん。」
「おお、」と女房は変った声音《こわね》。
「黙って、黙って、と理右衛門爺さまが胴の間《ま》で、苫《とま》の下でいわっしゃる。
 また、千太がね、あれもよ、陸《おか》の人魂《ひとだま》で、十五の年まで見ねえけりゃ、一生|逢《あ》わねえというんだが、十三で出っくわした、奴《やつ》は幸福《しあわせ》よ、と吐《こ》くだあね。

 おらあ、それを聞くと、艪《ろ》づかを握った手首から、寒くなったあ。」
「……まあ、厭《いや》じゃないかね、それでベソを掻いたんだね、無理はないよ、恐怖《こわ》いわねえ。」
 とおくれ毛を風に吹かせて、女房も悚然《ぞっ》とする。奴《やっこ》の顔色、赤蜻蛉《あかとんぼ》、黍《きび》の穂も夕づく日。
「そ、そんなくれえで、お浜ッ児《こ》の婿さんだ、そんなくれえでベソなんか掻くべいか。
 炎というだが、変な火が、燃え燃え、こっちへ来そうだで、漕ぎ放すべいと艪をおしただ。
 姉さん、そうすると、その火がよ、大方浪の形《かた》だんべい、おらが天窓《あたま》より高くなったり、船底へ崖《がけ》が出来るように沈んだり、ぶよぶよと転げやあがって、船脚へついて、海蛇ののたくるようについて来るだ。」
「………………」
「そして何よ、ア、ホイ、ホイ、アホイと厭な懸声がよ、火の浮く時は下へ沈んで、火の沈む時は上へ浮いて、上下《うえした》に底澄《そこず》んで、遠いのが耳について聞えるだ。」

 

       七

 

「何でも、はあ、おらと同じように、誰かその、炎さ漕《こ》いで来るだがね。
 傍《そば》へ来られてはなんねえだ、と艪《ろ》づかを刻んで、急いでしゃくると、はあ、不可《いけね》え。
 向うも、ふわふわと疾《はや》くなるだ。
 こりゃ、なんねえ、しょことがない、ともう打《うっ》ちゃらかして、おさえて突立《つった》ってびくびくして見ていたらな。やっぱりそれでも、来やあがって、ふわりとやって、鳥のように、舳《へさき》の上へ、水際さ離れて、たかったがね。一あたり風を食って、向うへ、ぶくぶくとのびたっけよ。またいびつ形《なり》に円くなって、ぼやりと黄色い、薄濁りの影がさした。大きな船は舳から胴の間へかけて、半分ばかり、黄色くなった。婦人《おんな》がな、裾《すそ》を拡げて、膝《ひざ》を立てて、飛乗った形だっけ。一ぱし大きさも大きいで、艪が上って、向うへ重くなりそうだに、はや他愛もねえ軽いのよ。
 おらあ、わい、というて、艪を放した。
 そん時だ、われの、顔は真蒼《まっさお》だ、そういう汝《おめえ》の面《つら》は黄色いぜ、と苫《とま》の間で、てんでんがいったあ。――あやかし火が通ったよ。
 奴《やっこ》、黙って漕げ、何ともするもんじゃねえッて、此家《こん》の兄哥《あにや》が、いわっしゃるで、どうするもんか。おら屈《かが》んでな、密《そっ》とその火を見てやった。
 ぼやりと黄色な、底の方に、うようよと何か動いてけつから。」
「えッ、何さ、何さ、三ちゃん、」と忙《せわ》しく聞いて、女房は庇《ひさし》の陰。
 日向《ひなた》の奴《やっこ》も、暮れかかる秋の日の黄ばんだ中に、薄黒くもなんぬるよ。
「何だかちっとも分らねえが、赤目鰒《あかめふぐ》の腸《はらわた》さ、引ずり出して、たたきつけたような、うようよとしたものよ。
 どす赤いんだの、うす蒼《あお》いんだの、にちにち舳《みよし》の板にくッついているようだっけ。
 すぽりと離れて、海へ落ちた、ぐるぐると廻っただがな、大のしに颯《さっ》とのして、一浪《ひとなみ》で遠くまで持って行った、どこかで魚《うお》の目が光るようによ。
 おらが肩も軽くなって、船はすらすらと辷《すべ》り出した。胴の間じゃ寂《ひっそ》りして、幽かに鼾《いびき》も聞えるだ。夜は恐ろしく更けただが、浪も平《たいら》になっただから、おらも息を吐《つ》いたがね。
 えてものめ、何が息を吐かせべい。
 アホイ、アホイ、とおらが耳の傍《はた》でまた呼ばる。

 黙って漕げ、といわっしゃるで、おらは、スウとも泣かねえだが、腹の中で懸声さするかと思っただよ。
 厭《いや》だからな、聞くまいとして頭あ掉《ふ》って、耳を紛らかしていたっけが、畜生、船に憑《つ》いて火を呼ぶだとよ。
 波が平《たいら》だで、なおと不可《いけね》え。火の奴《やつ》め、苦なしでふわふわとのしおった、その時は、おらが漕いでいる艪の方へさ、ぶくぶくと泳いで来たが、急にぼやっと拡がった、狸の睾丸《きんたま》八畳敷《はちじょうじき》よ。
 そこら一面、波が黄色に光っただね。
 その中に、はあ、細長い、ぬめらとした、黒い島が浮いたっけ。
 あやかし火について、そんな晩は、鮫《さめ》の奴が化けるだと……あとで爺《じい》さまがいわしった。
 そういや、目だっぺい。真赤《まっか》な火が二つ空を向いて、その背中の突先《とっさき》に睨《にら》んでいたが、しばらくするとな。いまの化鮫《ばけざめ》めが、微塵《みじん》になったように、大きい形はすぽりと消えて、百とも千とも数を知れねえ、いろんな魚《うお》が、すらすらすらすら、黄色な浪の上を渡りおったが、化鮫めな、さまざまにして見せる。唐《から》の海だか、天竺《てんじく》だか、和蘭陀《オランダ》だか、分ンねえ夜中だったけが、おらあそんな事で泣きやしねえ。」と奴《やっこ》は一息に勇んでいったが、言《ことば》を途切らし四辺《あたり》を視《なが》めた。
 目の前なる砂山の根の、その向き合える猛獣は、薄《すすき》の葉とともに黒く、海の空は浪の末に黄をぼかしてぞ紅《くれない》なる。

 

       八

 

「そうする内に、またお猿をやって、ころりと屈《かが》んだ人間ぐれえに縮かまって、そこら一面に、さっと暗くなったと思うと、あやし火の奴《やつ》め、ぶらぶらと裾《すそ》に泡を立てて、いきをついて畝《うね》って来て、今度はおらが足の舵《かじ》に搦《から》んで、ひらひらと燃えただよ。
 おらあ、目を塞いだが、鼻の尖《さき》だ。艫《とも》へ這上《はいあが》りそうな形よ、それで片っぺら燃えのびて、おらが持っている艪《ろ》をつかまえそうにした時、おらが手は爪の色まで黄色くなって、目の玉もやっぱりその色に染まるだがね。だぶりだぶり舷《ふなべり》さ打つ波も船も、黄色だよ。それでな、姉《あね》さん、金色になって光るなら、金《かね》の船で大丈夫というもんだが、あやかしだからそうは行かねえ。
 時々|煙《けむ》のようになって船の形が消えるだね。浪が真黒《まっくろ》に畝ってよ、そのたびに化物め、いきをついてまた燃えるだ。
 おら一生懸命に、艪で掻《かき》のめしてくれたけれど、火の奴は舵にからまりくさって、はあ、婦人《おんな》の裾が巻きついたようにも見えれば、爺《じじい》の腰がしがみついたようでもありよ。大きい鮟鱇《あんこう》が、腹の中へ、白張提灯《しらはりぢょうちん》鵜呑《うの》みにしたようにもあった。
 こん畜生、こん畜生と、おら、じだんだを蹈《ふ》んだもんだで、舵へついたかよ、と理右衛門爺《りえむじい》さまがいわっしゃる。ええ、引《ひっ》からまって点《とも》れくさるだ、というたらな。よくねえな、一あれ、あれようぜ、と滅入《めい》った声で松公がそういっけえ。
 奴《やっこ》や。
 ひゃあ。
 そのあやし火の中を覗《のぞ》いて見ろい、いかいこと亡者《もうじゃ》が居らあ、地獄の状《さま》は一見えだ、と千太どんがいうだあね。
 小児《こども》だ、馬鹿をいうない、と此家《ここ》の兄哥《あにや》がいわしっけ。
 おら堪《たま》んなくなって、ベソを掻き掻き、おいおい恐怖《こわ》くって泣き出したあだよ。」
 いわれはかくと聞えたが、女房は何にもいわず、唇の色が褪《あ》せていた。
「苫《とま》を上げて、ぼやりと光って、こんの兄哥の形がな、暗中《くらやみ》へ出さしった。
 おれに貸せ、奴《やっこ》寝ろい。なるほどうっとうしく憑《つ》きやあがるッて、ハッと掌《てのひら》へ呼吸《いき》を吹かしったわ。
 一しけ来るぞ、騒ぐな、といって艪づかさ取って、真直《まっすぐ》に空を見さしったで、おらも、ひとりでにすッこむ天窓《あたま》[#ルビの「あたま」は底本では「あまた」]を上げて視《なが》めるとな、一面にどす赤く濁って来ただ。波は、そこらに真黒《まっくろ》な小山のような海坊主が、かさなり合って寝てるようだ。
 おら胴の間へ転げ込んだよ。ここにもごろごろと八九人さ、小さくなってすくんでいるだね。
 どこだも知んねえ海の中に、船さただ一|艘《そう》で、目の前さ、化物に取巻かれてよ、やがて暴風雨《あらし》が来ようというだに、活《い》きて働くのはこんの兄哥、ただ一人だと思や心細いけんどもな、兄哥は船頭、こんな時のお船頭だ。」

 女房は引入れられて、
「まあ、ねえ、」とばかり深い息。
 奴《やっこ》は高慢に打傾き、耳に小さな手を翳《かざ》して、
「轟《ごう》――とただ鳴るばかりよ、長延寺様さ大釣鐘を半日|天窓《あたま》から被《かぶ》ったようだね。
 うとうととこう眠ったっぺ。相撲を取って、ころり投げ出されたと思って目さあけると、船の中は大水だあ。あかを汲《く》み出せ、大変だ、と船も人もくるくる舞うだよ。
 苫《とま》も何も吹飛ばされた、恐しい音ばかりで雨が降るとも思わねえ、天窓《あたま》から水びたり、真黒な海坊主め、船の前へも後へも、右へも左へも五十三十。ぬくぬくと肩さ並べて、手を組んで突立《つった》ったわ、手を上げると袖の中から、口い開《あ》くと咽喉《のど》から湧《わ》いて、真白《まっしろ》な水柱《みずばしら》が、から、倒《さかさま》にざあざあと船さ目がけて突蒐《つっかか》る。
 アホイ、ホイとどこだやら呼ばる声さ、あちらにもこちらにも耳について聞えるだね。」

 

       九

 

「その時さ、船は八丁艪《はっちょうろ》になったがな、おららが呼ばる声じゃねえだ。
 やっぱりおなじ処に、舵《かじ》についた、あやし火のあかりでな、影のような船の形が、薄ぼんやり、鼠色して煙《けむ》が吹いて消える工合《ぐあい》よ、すッ飛んじゃするすると浮いて行《ゆ》く。
 難有《ありがて》え、島が見える、着けろ着けろ、と千太が喚《わめ》く。やあ、どこのか船も漕《こ》ぎつけた、島がそこに、と理右衛門爺《りえむじい》さま。直《じき》さそこに、すくすくと山の形さあらわれて、暗《やみ》の中|突貫《つきぬ》いて大幅な樹の枝が、※[#「さんずい+散」、288-10]のあいだに揺《ゆす》ぶれてな、帆柱さ突立《つった》って、波の上を泳いでるだ。
 血迷ったかこいつら、爺様までが何をいうよ、島も山も、海の上へ出たものは石塊《いしころ》一ツある処じゃねえ。暗礁《かくれいわ》へ誘い寄せる、連《つれ》を呼ぶ幽霊船《ゆうれいぶね》だ。気を確《たしか》に持たっせえ、弱い音《ね》を出しやあがるなッて、此家《こん》の兄哥《あにや》が怒鳴るだけんど、見す見す天竺《てんじく》へ吹き流されるだ、地獄の土でも構わねえ、陸《おか》へ上《あが》って呼吸《いき》が吐《つ》きたい、助け船――なんのって弱い音さ出すのもあって、七転八倒するだでな、兄哥|真直《まっすぐ》に突立って、ぶるッと身震《みぶるい》をさしっけえよ、突然《いきなり》素裸《すっぱだか》になっただね。」
「内の人が、」と声を出して、女房は唾《つ》を呑《の》んだ。
「兄哥《あにや》がよ。おい。
 あやかし火さ、まだ舵に憑《つ》いて放れねえだ、天窓《あたま》から黄色に光った下腹へな、鮪縄《まぐろなわ》さ、ぐるぐると巻きつけて、その片端《かたはじ》を、胴の間の横木へ結《ゆわ》えつけると、さあ、念ばらしだ、娑婆《しゃば》か、地獄か見届けて来るッてな、ここさ、はあ、こんの兄哥《あにや》が、渾名《あだな》に呼ばれた海雀《うみすずめ》よ。鳥のようにびらりと刎《は》ねたわ、海の中へ、飛込むでねえ――真白《まっしろ》な波のかさなりかさなり崩れて来る、大きな山へ――駈上《かけあが》るだ。
 百尋《ひゃくひろ》ばかり束《つか》ね上げた鮪縄の、舷《ふなべり》より高かったのがよ、一掬《ひとすく》いにずッと伸《の》した! その、十丈、十五丈、弓なりに上から覗《のぞ》くのやら、反りかえって、睨《にら》むのやら、口さあげて威《おど》すのやら、蔽《おお》わりかかって取り囲んだ、黒坊主の立《たち》はだかっている中へ浪に揉《も》まれて行かしっけえ、船の中ではその綱を手ン手に取って、理右衛門爺さま、その時にお念仏だ。
 やっと時が立って戻ってござった。舷へ手をかけて、神様のような顔を出して、何にもねえ、八方から波を打《ぶッ》つける暗礁《かくれいわ》があるばかりだ、迷うな、ッていわしった。
 お船頭、御苦労じゃ、御苦労じゃ、お船頭と、皆《みんな》握拳《にぎりこぶし》で拝んだだがね。
 坊主も島も船の影も、さらりと消えてよ。そこら山のような波ばかり。
 急に、あれだ、またそこらじゅう、空も、船も、人の顔も波も大きい大きい海の上さ半分仕切って薄黄色になったでねえか。
 ええ、何をするだ、あやかしめ、また拡がったなッて、皆《みんな》くそ焼けに怒鳴ったっけえ。そうじゃねえ、東の空さお太陽《てんとう》さまが上《あが》らっしたが、そこでも、姉《あね》さん、天と波と、上下《うえした》へ放れただ。昨夜《ゆうべ》、化鮫《ばけざめ》の背中出したように、一面の黄色な中に薄ぼんやり黒いものがかかったのは、嶽《たけ》の堂が目の果《はて》へ出て来ただよ。」
 女房はほっとしたような顔色《かおつき》で、
「まあ、可《よ》かったねえ、それじゃ浜へも近かったんだね。」
「思ったよりは流されていねえだよ、それでも沖へ三十里ばかり出ていたっぺい。」

「三十里、」
 とまた驚いた状《さま》である。
「何だなあ、姉《あね》さん、三十里ぐれえ何でもねえや。
 それで、はあ夜が明けると、黄色く環《わ》どって透通ったような水と天との間さ、薄あかりの中をいろいろな、片手で片身の奴《やつ》だの、首のねえのだの、蝦蟇《がま》が呼吸《いき》吹くようなのだの、犬の背中へ炎さ絡《から》まっているようなのだの、牛だの、馬だの、異形《いぎょう》なものが、影燈籠《かげどうろう》見るようにふわふわまよって、さっさと駈け抜けてどこかへ行《ゆ》くだね。」

 

       十

 

「あとで、はい、理右衛門爺《りえむじい》さまもそういっけえ、この年になるまで、昨夜《ゆうべ》ぐれえ執念深《しゅうねんぶけ》えあやかしの憑《つ》いた事はねえだって。
 姉《あね》さん。
 何だって、あれだよ、そんなに夜があけて海のばけものどもさ、するする駈《か》け出して失《う》せるだに、手許《てもと》が明《あかる》くなって、皆《みんな》の顔が土気色《つちけいろ》になって見えてよ、艪《ろ》が白うなったのに、舵《かじ》にくいついた、えてものめ、まだ退《の》かねえだ。
 お太陽《てんとう》さまお庇《かげ》だね。その色が段々|蒼《あお》くなってな、ちっとずつ固まって掻いすくまったようだっけや、ぶくぶくと裾《すそ》の方が水際で膨れたあ、蛭《ひる》めが、吸い肥《ふと》ったようになって、ほとりの波の上へ落ちたがね、からからと明くなって、蒼黒い海さ、日の下で突張《つっぱ》って、刎《は》ねてるだ。
 まあ、めでてえ、と皆《みんな》で顔を見たっけや、めでてえはそればかりじゃねえだ、姉さんも、新しい衣物《きもの》が一枚出来たっぺい、あん時の鰹《かつお》さ、今年中での大漁だ。
 舳《みよし》に立って釣らしった兄哥《あにや》の身《からだ》のまわりへさ、銀の鰹が降ったっけ、やあ、姉さん。」
 と暮れかかる蜘蛛《くも》の囲《い》の檐《のき》を仰いだ、奴《やっこ》の出額《おでこ》は暗かった。
 女房もそれなりに咽喉《のど》ほの白う仰向《あおむ》いて、目を閉じて見る、胸の中《うら》の覚え書。
「じゃ何だね、五月雨時分《さみだれじぶん》、夜中からあれた時だね。
 まあ、お前さんは泣き出すし、爺さまもお念仏をお唱えだって。内の人はその恐しい浪の中で、生命《いのち》がけで飛込んでさ。
 私はただ、波の音が恐しいので、宵から門《かど》へ鎖《じょう》をおろして、奥でお浜と寝たっけ、ねえ。
 どんな烈《はげ》しい浪が来ても裏の崖《がけ》は崩れない、鉄の壁だ安心しろッて、内の人がおいいだから、そればかりをたよりにして、それでもドンと打《ぶ》つかるごとに、崖と浪とで戦《いくさ》をする、今打った大砲で、岩が破れやしまいかと、坊やをしっかり抱くばかり。夜中に乳のかれるのと、寂しいばかりを慾《よく》にして、冷《つめた》いとも寒いとも思わないで寝ていたのに、そうだったのか、ねえ、三ちゃん。
 そんな、荒浪だの、恐しいあやかし火とやらだの、黒坊主だの、船幽霊《ふなゆうれい》だのの中で、内の人は海から見りゃ木《こ》の葉のような板一枚に乗っていてさ、」と女房は首垂《うなだ》れつつ、
「私にゃ何にもいわないんだもの……」と思わず襟に一雫《ひとしずく》、ほろりとして、
「済まないねえ。」
 奴《やっこ》は何の仔細《しさい》も知らず、慰め顔に威勢の可《い》い声、

「何も済まねえッて事《こた》アありやしねえだ。よう、姉《あね》さん、お前に寒かったり冷たかったり、辛い思いさ、さらせめえと思うだから、兄哥《あにや》がそうして働くだ。おらも何だぜ、もう、そんな時さあったってベソなんか掻きやしねえ、お浜ッ子の婿さんだ、一所に海へ飛込むぜ。
 そのかわり今もいっけえよ。兄哥《あにや》のために姉さんが、お膳立《ぜんだ》てしたり、お酒買ったりよ。
 おら、酒は飲まねえだ、お芋で可《い》いや。
 よッしょい、と鰹さ積んで波に乗込んで戻って来ると、……浜に煙が靡《なび》きます、あれは何ぞと問うたれば」
 と、いたいけに手をたたき、
「石々《いしいし》合わせて、塩|汲《く》んで、玩弄《おもちゃ》のバケツでお芋煮て、かじめをちょろちょろ焚《た》くわいのだ。……よう姉《あね》さん、」
 奴《やっこ》は急にぬいと立ち、はだかった胸を手で仕切って、
「おらがここまで大きくなって、お浜ッ子が浜へ出て、まま事するはいつだろうなあ。」
 女房は夕露の濡れた目許の笑顔優しく、
「ああ、そりゃもう今日明日という内に、直きに娘になるけれど、あの、三ちゃん、」
 と調子をかえて、心ありげに呼びかける。

 

       十一

 

「ああ、」
「あのね、私は何も新しい衣物《きもの》なんか欲《ほし》いとは思わないし、坊やも、お菓子も用《い》らないから、お前さん、どうぞ、お婿さんになってくれる気なら、船頭はよして、何ぞ他《ほか》の商売にしておくれな、姉《ねえ》さん、お願いだがどうだろうね。」
 と思い入ったか言《ことば》もあらため、縁に居ずまいもなおしたのである。
 奴《やっこ》は遊び過ぎた黄昏《たそがれ》の、鴉《からす》の鳴くのをきょろきょろ聞いて、浮足に目も上《うわ》つき、
「姉《あね》さん、稲葉丸は今日さ日帰りだっぺいか。」
「ああ、内でもね。今日は晩方までに帰るって出かけたがね、お聞きよ、三ちゃん、」
 とそわそわするのを圧《おさ》えていったが、奴《やっこ》はよくも聞かないで、
「姉《あね》さんこそ聞きねえな、あらよ、堂の嶽《たけ》から、烏が出て来た、カオ、カオもねえもんだ、盗賊《どろぼう》をする癖にしやあがって、漁さえ当ると旅をかけて寄って来やがら。
 姉さん船が沖へ来たぜ、大漁だ大漁だ、」
 と烏の下で小さく躍る。
「じゃ、内の人も帰って来よう、三ちゃん、浜へ出て見ようか。」と良人《おっと》[#ルビの「おっと」は底本では「をっと」]の帰る嬉しさに、何事も忘れた状《さま》で、女房は衣紋《えもん》を直した。
「まだ、見えるような処まで船は入りやしねえだよ。見さっせえ。そこらの柿の樹の枝なんか、ほら、ざわざわと烏めい、えんこをして待ってやがる。
 五六里の処、嗅《か》ぎつけて来るだからね。ここらに待っていて、浜へ魚の上るのを狙《ねら》うだよ、浜へ出たって遠くの方で、船はやっとこの烏ぐれえにしか見えやしねえや。
 やあ、見さっせえ、また十五六羽|遣《や》って来た、沖の船は当ったぜ。
 姉《あね》さん、また、着るものが出来らあ、チョッ、」
 舌打の高慢さ、

「おらも乗って行《ゆ》きゃ小遣《こづかい》が貰《もれ》えたに、号外を遣って儲《もう》け損なった。お浜ッ児《こ》に何にも玩弄物《おもちゃ》が買えねえな。」
 と出額《おでこ》をがッくり、爪尖《つまさき》に蠣殻《かきがら》を突ッかけて、赤蜻蛉《あかとんぼ》の散ったあとへ、ぼたぼたと溢《こぼ》れて映る、烏の影へ足礫《あしつぶて》。
「何をまたカオカオだ、おらも玩弄物を、買お、買おだ。」
 黙って見ている女房は、急にまたしめやかに、
「だからさ、三ちゃん、玩弄物も着物も要らないから、お前さん、漁師でなく、何ぞ他《ほか》の商売をするように心懸けておくんなさいよ。」という声もうるんでいた。
 奴《やっこ》ははじめて口を開け、けろりと真顔で向直って、
「何だって、漁師を止《や》めて、何だって、よ。」
「だっても、そんな様子じゃ、海にどんなものが居ようも知れない、ね、恐《こわ》いじゃないか。
 内の人や三ちゃんが、そうやって私たちを留守にして海へ漁をしに行ってる間に、あらしが来たり浪が来たり、そりゃまだいいとして、もしか、あの海から上って私たちを漁しに来るものがあったらどうしよう。貝が殻へかくれるように、家《うち》へ入って窘《すく》んでいても、向うが強ければ捉《つか》まえられるよ。お浜は嬰児《あかんぼ》だし、私はこうやって力がないし、それを思うとほんとに心細くってならないんだよ。」
 としみじみいうのを、呆《あき》れた顔して、聞き澄ました、奴《やっこ》は上唇を舌で甞《な》め、眦《めじり》を下げて哄々《くっくっ》とふき出《いだ》し。
「馬鹿あ、馬鹿あいわねえもんだ。へ、へ、へ、魚《うお》が、魚が人間を釣りに来てどうするだ。尾で立ってちょこちょこ歩行《ある》いて、鰭《ひれ》で棹《さお》を持つのかよ、よう、姉《あね》さん。」
「そりゃ鰹《かつお》や、鯖《さば》が、棹を背負《しょ》って、そこから浜を歩行《ある》いて来て、軒へ踞《しゃが》むとはいわないけれど、底の知れない海だもの、どんなものが棲《す》んでいて、陽気の悪い夜なんぞ、浪に乗って来ようも知れない。昼間だって、ここへ来たものは、――今日は、三ちゃんばかりじゃないか。」
 と女房は早や薄暗い納戸の方《かた》を顧みる。

 

       十二

 

「ああ、何だか陰気になって、穴の中を見るようだよ。」
 とうら寂しげな夕間暮《ゆうまぐれ》、生干《なまび》の紅絹《もみ》も黒ずんで、四辺《あたり》はものの磯《いそ》の風。
 奴《やっこ》は、旧《もと》来た黍《きび》がらの痩《や》せた地蔵の姿して、ずらりと立並ぶ径《こみち》を見返り、
「もっと町の方へ引越して、軒へ瓦斯燈《がすとう》でも点《つ》けるだよ、兄哥《あにや》もそれだから稼ぐんだ。」
「いいえ、私ゃ、何も今のくらしにどうこうと不足をいうんじゃないんだわ。私は我慢をするけれどね、お浜が可哀《かわい》そうだから、号外屋でも何んでもいい、他《ほか》の商売にしておくれって、三ちゃん、お前に頼むんだよ。内の人が心配をすると悪いから、お前決して、何んにもいうんじゃないよ、可《い》いかい、解《わか》ったの、三ちゃん。」
 と因果を含めるようにいわれて、枝の鴉《からす》も頷《うなず》き顔。
「むむ、じゃ何だ、腰に鈴をつけて駈《か》けまわるだ、帰ったら一番、爺様《じいさま》と相談すべいか、だって、お銭《あし》にゃならねえとよ。」
 と奴《やっこ》は悄乎《しょ》げて指を噛《か》む。
「いいえさ、今が今というんじゃないんだよ。突然《いきなり》そんな事をいっちゃ不可《いけな》いよ、まあ、話だわね。」
 と軽くいって、気をかえて身を起した、女房は張板《はりいた》をそっと撫《な》で、
「慾張ったから乾き切らない。」
「何、姉《あね》さんが泣くからだ、」
 と唐突《だしぬけ》にいわれたので、急に胸がせまったらしい。
「ああ、」
 と片袖《かたそで》を目にあてたが、はッとした風で、また納戸を見た。
「がさがさするね、鴉が入りやしまいねえ。」

 三之助はまた笑い、
「海から魚が釣りに来ただよ。」
「あれ、厭《いや》、驚《おど》かしちゃ……」
 お浜がむずかって、蚊帳《かや》が動く。
「そら御覧な、目を覚ましたわね、人を驚《おど》かすもんだから、」
 と片頬《かたほ》に莞爾《にっこり》、ちょいと睨《にら》んで、
「あいよ、あいよ、」
「やあ、目を覚《さま》したら密《そっ》と見べい。おらが、いろッて泣かしちゃ、仕事の邪魔するだから、先刻《さっき》から辛抱してただ。」と、かごとがましく身を曲《くね》る。
「お逢《あ》いなさいまし、ほほほ、ねえ、お浜、」
 と女房は暗い納戸で、母衣蚊帳《ほろがや》の前で身動《みじろ》ぎした。
「おっと、」
 奴《やっこ》は縁に飛びついたが、
「ああ、跣足《はだし》だ姉《あね》さん。」
 と脛《すね》をもじもじ。
「可《いい》よ、お上りよ。」
「だって、姉《あね》さんは綺麗《きれい》ずきだからな。」

「構わないよ、ねえ、」
 といって、抱き上げた児《こ》に頬摺《ほおずり》しつつ、横に見向いた顔が白い。
「やあ、もう笑ってら、今泣いた烏《からす》が、」
 と縁端《えんはし》に遠慮して遠くで顔をふって、あやしたが、
「ほんとに騒々しい烏だ。」
 と急に大人びて空を見た。夕空にむらむらと嶽《たけ》の堂を流れて出た、一団の雲の正中《ただなか》に、颯《さっ》と揺れたようにドンと一発、ドドド、ドンと波に響いた。
「三ちゃん、」
「や、また爺さまが鴉をやった。遊んでるッて叱られら、早くいって圧《おさ》えべい。」
「まあ、遊んでおいでよ。」
 と女房は、胸の雪を、児《こ》に暖く解きながら、斜めに抱いて納戸口。

 

       十三

 

「ねえ、今に内の人が帰ったら、菜のものを分けてお貰《もら》い、そうすりゃ叱られはしないからね。何だか、今日は寂しくッて、心細くッてならないから、もうちっと、遊んで行っておくれ、ねえ、お浜、もうお父《とっ》さんがお帰りだね。」
 と顔に顔、児《こ》にいいながら縁へ出て来た。
 おくれ毛の、こぼれかかる耳に響いて、号外――号外――とうら寂しい。
「おや、もういってしまったんだよ。」
 女房は顔を上げて、
「小児《こども》だねえ」
 と独りでいったが、檐《のき》の下なる戸外《おもて》を透かすと、薄黒いのが立っている。
「何だねえ、人をだましてさ、まだ、そこに居るのかい、此奴《こいつ》、」
 と小児《こども》に打《ぶ》たせたそうに、つかつかと寄ったが、ぎょっとして退《すさ》った。
 檐下の黒いものは、身の丈三之助の約三倍、朦朧《もうろう》として頭《つむり》の円い、袖の平たい、入道であった。
 女房は身をしめて、キと唇を結んだのである。
 時に身じろぎをしたと覚《おぼ》しく、彳《たたず》んだ僧の姿は、張板《はりいた》の横へ揺れたが、ちょうど浜へ出るその二頭の猛獣に護《まも》られた砂山の横穴のごとき入口を、幅一杯に塞《ふさ》いで立った。背高き形が、傍《わき》へ少し離れたので、もう、とっぷり暮れたと思う暗さだった、今日はまだ、一条《ひとすじ》海の空に残っていた。良人《おっと》が乗った稲葉丸は、その下あたりを幽《かすか》な横雲。
 それに透《すか》すと、背のあたりへぼんやりと、どこからか霧が迫って来て、身のまわりを包んだので、瘠《や》せたか、肥えたか知らぬけれども、窪《くぼ》んだ目の赤味を帯びたのと、尖《とが》って黒い鼻の高いのが認められた。衣は潮垂れてはいないが、潮は足あとのように濡れて、砂浜を海方《うみて》へ続いて、且つその背のあたりが連《しき》りに息を吐《つ》くと見えて、戦《わなな》いているのである。
 心弱き女房も、直ちにこれを、怪しき海の神の、人を漁《あさ》るべく海から顕《あら》われたとは、余り目《ま》のあたりゆえ考えず。女房は、ただ総毛立った。
 けれども、厭《いや》な、気味の悪い乞食坊主《こじきぼうず》が、村へ流れ込んだと思ったので、そう思うと同時に、ばたばたと納戸へ入って、箪笥《たんす》の傍《そば》なる暗い隅へ、横ざまに片膝《かたひざ》つくと、忙《せわ》しく、しかし、殆《ほと》んど無意識に、鳥目《ちょうもく》を。
 早く去《い》ってもらいたさの、女房は自分も急いで、表の縁へするすると出て、此方《こなた》に控えながら、

「はい、」
 という、それでも声は優しい女。
 薄黒い入道は目を留めて、その挙動《ふるまい》を見るともなしに、此方《こなた》の起居《たちい》を知ったらしく、今、報謝をしようと嬰児《あかご》を片手に、掌《て》を差出したのを見も迎えないで、大儀らしく、かッたるそうに頭《つむり》を下に垂れたまま、緩《ゆる》く二ツばかり頭《かぶり》を掉《ふ》ったが、さも横柄《おうへい》に見えたのである。
 また泣き出したを揺《ゆす》りながら、女房は手持無沙汰《てもちぶさた》に清《すず》しい目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》ったが、
「何ですね、何が欲《ほし》いんですね。」
 となお物貰《ものもら》いという念は失《う》せぬ。
 ややあって、鼠《ねずみ》の衣の、どこが袖ともなしに手首を出して、僧は重いもののように指を挙げて、その高い鼻の下を指した。
 指すとともに、ハッという息を吐《つ》く。
 渠《かれ》飢えたり矣。
「三ちゃん、お起きよ。」
 ああ居てくれれば可《よ》かった、と奴《やっこ》の名を心ゆかし、女房は気転らしく呼びながら、また納戸へ。

 

       十四

 

 強盗《ごうとう》に出逢《であ》ったような、居もせぬ奴《やっこ》を呼んだのも、我ながら、それにさへ、動悸《どうき》は一倍高うなる。
 女房は連《しき》りに心急《こころせ》いて、納戸に並んだ台所口に片膝つきつつ、飯櫃《めしびつ》を引寄せて、及腰《およびごし》に手桶《ておけ》から水を結び、効々《かいがい》しゅう、嬰児《ちのみ》を腕《かいな》に抱いたまま、手許も上《うわ》の空で覚束《おぼつか》なく、三ツばかり握飯《にぎりめし》。
 潮風で漆の乾《から》びた、板昆布《いたこぶ》を折ったような、折敷《おしき》にのせて、カタリと櫃を押遣《おしや》って、立てていた踵《かかと》を下へ、直ぐに出て来た。
「少人数の内ですから、沢山はないんです、私のを上げますからね、はやく持って行って下さいまし。」
 今度はやや近寄って、僧の前へ、片手、縁の外へ差出すと、先刻《さっき》口を指したまま、鱗《うろこ》でもありそうな汚い胸のあたりへ、ふらりと釣っていた手が動いて、ハタと横を払うと、発奮《はずみ》か、冴《さえ》か、折敷ぐるみ、バッタリ落ちて、昔々、蟹《かに》を潰《つぶ》した渋柿に似てころりと飛んだ。
 僧はハアと息が長い。
 余《あまり》の事に熟《じっ》と視《み》て、我を忘れた女房、
「何をするんですよ。」
 一足|退《の》きつつ、
「そんな、そんな意地の悪いことをするもんじゃありません、お前さん、何が、そう気に入らないんです。」
 と屹《きっ》といったが、腹立つ下に心弱く、
「御坊《おぼう》さんに、おむすびなんか、差上げて、失礼だとおっしゃるの。
 それでは御膳《おぜん》にしてあげましょうか。
 そうしましょうかね。
 それでははじめから、そうしてあげるのだったんですが、手はなし、こうやって小児《こども》に世話が焼けますのに、入相《いりあい》で忙《せわ》しいもんですから。……あの、茄子《なす》のつき加減なのがありますから、それでお茶づけをあげましょう。」
 薄暗がりに頷《うなず》いたように見て取った、女房は何となく心が晴れて機嫌よく、

「じゃ、そうしましょう/\。お前さん、何にもありませんよ。」
 勝手へ後姿になるに連れて、僧はのッそり、夜が固《かたま》って入ったように、ぬいと縁側から上り込むと、表の六畳は一杯に暗くなった。
 これにギョッとして立淀《たちよど》んだけれども、さるにても婦人《おんな》一人。
 ただ、ちっとも早く無事に帰してしまおうと、灯をつける間《ま》ももどかしく、良人《おっと》の膳を、と思うにつけて、自分の気の弱いのが口惜《くやし》かったけれども、目を瞑《ねむ》って、やがて嬰児《ちのみ》を襟に包んだ胸を膨《ふく》らかに、膳を据えた。
「あの、なりたけ、早くなさいましよ、もう追ッつけ帰りましょう。内のはいっこくで、気が強いんでござんすから、知らない方をこうやって、また間違いにでもなると不可《いけ》ません、ようござんすか。」
 と茶碗に堆《うずたか》く装《も》ったのである。
 その時、間《ま》の四隅を籠《こ》めて、真中処《まんなかどころ》に、のッしりと大胡坐《おおあぐら》でいたが、足を向うざまに突き出すと、膳はひしゃげたように音もなく覆《くつがえ》った。
「あれえ、」
 と驚いて女房は腰を浮かして遁《に》げさまに、裾《すそ》を乱して、ハタと手を支《つ》き、
「何ですねえ。」
 僧は大いなる口を開けて、また指した。その指で、かかる中《うち》にも袖で庇《かば》った、女房の胸をじりりとさしつつ、
(児《こ》を呉《く》れい。)
 と聞いたと思うと、もう何にも知らなかった。
 我に返って、良人の姿を一目見た時、ひしと取縋《とりすが》って、わなわなと震えたが、余り力強く抱いたせいか、お浜は冷《つめた》くなっていた。
 こんな心弱いものに留守をさせて、良人が漁《すなど》る海の幸よ。
 その夜はやがて、砂白く、崖《がけ》蒼《あお》き、玲瓏《れいろう》たる江見の月に、奴《やっこ》が号外、悲しげに浦を駈《か》け廻って、蒼海《わたつみ》の浪ぞ荒かりける。

 

リンク集


トップページ あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 サイトマップ