京阪聞見録

予も亦明晩立たうと思ふ。今は名古屋に往く人を見送る爲めに新橋に來てゐるのだ。待合室は發車を待つ人の不安な情調と煙草の烟とに滿たされて居る。
 商標公報といふ雜誌の[#「雜誌の」は底本では「離誌の」]綴を取り上げて見る。此《ここ》に予は一種の實用的な平民藝術を味ふ事が出來て大に面白かつた。殺鼠劑の商標に猫が手※[#「巾+白」、第4水準2-8-83]《ハンカチ》で涙を拭つて居る圖は見覺えのあるものであるが、PARK 公園などと云ふ石鹸は餘程名に困つた物と見える。それでも二つの概念を心理學的に乃至藝術的に聯絡させてゆくと、俳句などとは違つたまた一種の興味あるのを知るに至る。其他化粧品に菖蒲と翡翠《ひすゐ》との組合せがある。怪しい洋人の移寫したやうな字で「サムライ印」とかいふ騎馬武者の木綿織物の商標は、予をして漫ろに横濱のサムライ商會の店頭の裝飾を想起せしめた。是れ亦確かに西洋人に映つた日本趣味の反射であらう。「櫻山」と云ふ清酒がある。「吉野」といふのがある。かう云ふのはよく今迄他の人が附けずに置いたものだと感心する。道中姿の華魁《おいらん》の胸から腰にかけて「正宗」とやつたのは露骨であるが奇拔である。Bacchus Venus と雙方を神性にする西洋の思想に對照して考へると更に一段と面白い。鶫麹漬といふのは何と讀むのかしらむ。電車の全形を圖案に仕組むなどは素人は大膽なものだ。
 天明頃の「江戸町中喰物重寶記」といふ本を見た事がある。その中の屋號《やじるし》や紋所や簡單な縁《ふち》を附けた廣告を思ひ出す。當時有名だつたといふおまん鮨などの廣告を見ると一種懷しい妙な心持になる。神社佛閣に張る千社札を三卷の帖に集めた好事家の苦心に驚かされた事があつたが「日本廣告畫史」などを完成するやうなのん氣な時代はいつ來る事やら。さう云へば立派な浮世繪史さへまだ碌々に出來て居ないでは無いか。(三月二十九日神戸にて。)

 

 昨夜神戸に入る前に日中京都で暮した。けれども今何も目に殘つて居るものとては無い。あれば唯河原の布晒し位のものだ。庚申《かうしん》橋とかいふ橋の下に大小紅紫いろいろの友禪の半襟を綱に弔るして居たのが、如何にも春らしく京都らしく好い氣持であつた。も一つは黒田清輝さん流のコバルト色の著物の男が四斗樽へ一ぱい色々の切《きれ》を入れて、それをこちこちと棒でかき※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して居たのを見た。背景に緑を斑入《ふい》れにして灰色の河原の石の上に、あちらこちらに干されたる斑らに鮮かな色の布。こんな景色は澤山見られた。然し京都では、たとへば一人の人が河原に仕事をしてゐて、五六の人が惘然《ばうぜん》とそれを眺め入つて居る所も、油繪のやうには見えないで、却つて古い縁起ものの繪卷物の一部を仕切つたやうに見えるのである。京極の方から迷ひ込んで何とかいふ長い市場の通りを歩いたが、その兩側の家の、たとへば蒲鉾屋の淡紅淡緑、縞入りの蒲鉾、魚屋の手繰《てぐ》りものの小鯛、黒鯛、鰺、魴※[#「魚+弗」、第3水準1-94-37]《はうぼう》の類はいかにも綺麗に並んで居るが、然し決してカン※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]スとテレビンで取扱ふ事の出來るものでは無い。やはり祐信、春信等の趣味である。
 だから三條四條邊の町でよく見られる骨董店の英山、歌麿の類は、今の東京で見るより、こちらで見た方がいかにも當然で、居る可き所に居るやうに見えるのである。
 燈が點いてから三條から四條へ出る河沿の通りを歩いて見た。「未墾地」のネシユダノフがロココ趣味の老夫婦が家に入る時の心より更に不思議な情調に捉へられた。もう柳の間から水に映る燈が見られた。
 いろいろの人を訪ねたが誰にも會ふことが出來なかつた。其晩神戸に入つた。(三月二十九日神戸にて。)

 

 こつちへ來る前にHYと君の居る桶屋さんの家を訪ねたが生憎お留守で殘念であつた。その前にもひとりの人と三人で中澤弘光氏の工房を尋ねて、それから君の處へ行つたのである。
 京都見物の前に中澤さんの所で「京都の豫感」を、實は味はうと思つたのだが、生憎京都のスケツチはみんな板彫の方に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて居たので見る事が出來なかつた。僕等は決して自然の景情を絶對的な自分の眼といふもので見る事が出來ないのだ。餘程其時代を支配してゐる大家に便つて居るのだ。たとへば春さき灰緑に芽ぐんで來る佃《つくだ》島の河沿の河原の草などを見る時分には、どうしても黒田さんの樣風《マニエエル》を想ひ出さずには居られない。東京の自然界で黒田さんと廣重との配調《アランジマン》を味ふのを、京都で祐信と中澤にしようと思つたのだが、中澤さん情調を吹きかけられることの出來なかつたのは遺憾であつた。
 其代り氏の温泉スケツチの類集《セリイ》は見る事が出來た。温泉といふものは官能的にも固《もと》より愉快なものだが、更に繪畫の標準に換算しても亦面白いものでなければならぬ。白い裸體と紫色に澄んだ泉の表面とを主調とした色彩畫派的《コロリスチツク》の色彩諧調は思ひ出した丈でも食欲をそそる。
 氏は油で浴泉圖をかくのだと云つて居られた。丹前風呂とか羅馬の浴場とか云ふものは、蓋し爛熟せる文明の窮極である。然し凡ての平俗を嫌つて珍奇を求める Degas の非情なる觀察眼が今の此國にも許されるならば、この種の畫題はむしろ町の生活に於て取られた方が面白からうと思はずには居られなかつたのである。纖弱《かよわ》い肩胛骨《あふぎぼね》は彫刻にも效果《エツフエエ》のある者である。更に温く曇つた水蒸氣の中に「白の調和」は一層善く、色彩畫家《コロリスト》のカン※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]スに向くと思ふ。清長の珍らしい浴泉圖は二枚あつて、その一枚がドガアの手に入つてゐると云ふ事は上田柳村先生の「渦卷」で承知してめづらしい事と思つた。(三月二十九日神戸にて。)

 

 二十九日、三十日、雨。三十日の午過ぎに始めて空が霽れて來たから人と神戸市中を見物したが一向つまらなかつた。横濱にはまだ所々予の所謂「異人館情調」が殘つて居るけれども、神戸にはそれすら一向に無い。市中所見の物象は鉛直に非ざれば水平、水平に非ざれば四十五度六十度角で人の目の前に迫つて居る。近く見える西洋館から遠くの船舶の檣、港の起重機、棧橋上の鐵道荷車、各種の煙突、正午報知臺等が皆それである。色彩の方では煉瓦、屋根の瓦、ペンキ塗の羽目板、偶※[#二の字点、1-2-22]はポプラスの繁り、それからそれらの凡てに亙つてゐる金屬的灰色の空氣の調子である。街上の美人と稱す可き人相《フイジオノミイ》にも出くはさない。立派な店を張つてゐる家の主人や番頭の顏もまだ都會化せられて居ないで、獰《あら》い植民地的の相貌を呈して居る。看板の東京風とか江戸自慢とかいふ形容詞がいかにも田舍臭くて不愉快である。
 東京ことば、大阪、京都、伊勢、中國邊の方言の雜ぜ合せにドス、オマス、ナアなどといふ語尾を附けると略《ほぼ》神戸の言葉に近くなる。
 奇事奇談《キユリオジテ》といふやうなものにもあまり出遇はなかつた。ただ昨日神戸兵庫間の電車の試運轉があつて榮町は人立がしてそれを眺め入つた。神戸などは高い異人館があつていかにもハイカラらしいが、かういふ光景を見ると、明治初年の清親、國輝などの名所繪を見るやうで馬鹿馬鹿しくてならぬ。
 昨夕《ゆうべ》も近所の湯にいつたら電車の噂で持ち切りであつた。汽車には踏切番といふものがあるが電車にはそれが無いから、子供等には危險だと一人の男がいふと、番臺の女房が「ほんにさうどすな」と相槌を打つてゐた。(三月三十一日朝、神戸にて。)

 

 昨日は大阪へ來て一日暮した。それまでは毎日雨で芥舟學畫篇だの沈氏畫塵だのを讀ませられて大分支那情調になつて居た所を、昨日一日で全く洗ひ落して仕舞つた。その日の午前中はそこのあらゆる賑かな通り、河岸、橋梁等の光景を見て歩いた。予は都會の形態的標準は橋梁に存すると思ふ。京町から平野橋、それから今迄の道に直角に歩いて思案橋、博物館、農人町、住吉町の通りから道頓堀に出て、それから中の島まで引返した。大阪の河岸の印象は東京とは大分違ふやうだ。ちよつと話した丈ではこの細《こまか》い官能的印象の相違は傳へられない。
 大阪の河岸は夏は黄ろい羽目板と簾《すだれ》とで持ち切つて居るのであるが、それでも、たとへば尼ヶ崎橋から上下を見通した所のやうに白壁の土藏も少くは無い。東京のやうに煉瓦は多くない。白壁には小さい窓が二つ乃至四つ五つ附いて居て、それが多少暗示的な何物かを持つてゐる。白壁にはよく酒の銘が塗り上げられてある。屡《よく》見るのは福翁、白鶴、金霞、○○正宗、それに波に日の出の朝日ビール。
 尼ヶ崎橋に立つて不圖《ふと》東京の今川橋に居るやうな氣になつた。あの橋の手前の河岸縁の家にまさきか何かむくむくと繁つた常緑の樹があつて、それに夏からの風鈴が雨に濡れたままに弔《つる》されて居た事を記憶してゐる。ここは兩側の家、今の倉庫を除けば河に面した兩側には主に玻璃障子を立てた家が並んでゐる。それに小さい欄干の附いた出窓が張り出て、松や萬年青《おもと》や檜などの盆栽が置かれてある。赤い更紗の風呂敷(これは今は東京ではめつたに見られない、風呂敷として染めて重に赤地へ黒と白との模樣があるもの)それから襁褓《おむつ》といふものが軒下に干されてある……といふやうな錯雜した景色の後ろに――大阪風の棟數《むねかず》の多いごたごたした屋根の群の上に遙に聳やぎ立つ物干《ものほし》が見える。物干には幾聯となき手拭がひらしやらと風に搖れてゐる。今川橋でも同じ樣なものが見られた。而も三代目かの廣重の繪にも取られてある所を見ると、昔の鳴海《なるみ》の宿の鳴海《なるみ》絞りを懸け弔す店と同じく、少し繪心のある人の心を惹くものと見える。
 堀は東京より水が綺麗だ。材木の舟|筏《いかだ》、肥料桶の舟などが悠々として櫂で橋下を漕ぎ拔けてゆく。橋の上でスケツチなどは到底出來ない。大阪の橋は皆西洋工學以前の代物と見えて、鐵の欄干の橋でさへ、一の車、一の馬力が來る毎に氣味の惡い程ぐらぐらと搖れるのである。
 京屋町から平野橋に行く例の狹い賑かな通りの、或古本屋の表に浮世繪の廣告が出て居たからはひつて冷かして見た。多分飜刻物であるが、中の一枚の春信(のであつたか)の行水を使つて居る女の肉附《モルピベツス》は素敵であつた。後に衝立を立ててそれに着物が懸けてある。その前で例の春信型の線の細い輪郭の、例の顏容《フイジオノミイ》の女が盥《たらひ》で湯を使つてゐるのであるが、その線は寫實的であつたから不快ではなかつたが、ロダンやマネの素描の知的な冷たさに代へて、柔かく、唯單に肉體の輪郭を仕切るといふ必要以外の艶冶《あだぽさ》を見せようという作意の爲めに、全體がやや浮世繪的官能的になつたのはやむを得ない。
 外に歌麿や湖龍齋の板畫があつたがつまらなかつた。皆《みんな》十年許り前の獨逸行の飜刻物であるやうだつた。ああいふ繪はそれで澤山だのに、それでもなほ原物を求めたがるのは、希有《ラアルテ》を崇ぶといふ外に何かわけの有る事だらう。――江戸の浮世繪は現に大阪に於ては東京に於けるよりも似つかはしい。それから又大阪を漫歩するのは京都を歩くより愉快だ。京都は常に多くの漫遊者を扱ひ慣れて居るから、旅人として向ふに氣が付かせずに、その横顏《プロフイイル》を覗き込むといふことは出來ない。そして畫家の目を牽く光景に舞子と異人といふやうな粗い對照も少くは無い。夫れに反して大阪はいかにも古風の老舖の如く、古いままで固まつてゐる。
 道は氣にかかるほど狹く、それに應じて屋根も低い。蒲鉾屋は例によつて紅緑の色蒲鉾を並べ、壽司屋の鮨の配列、鳥屋の招牌の澪標《みをつくし》、しるこ屋の行燈、饂飩屋の提灯までもみな草雙紙の表紙のやうな一樣の趣味から出來てゐるのである。
 南區のある通りには紅で塗つた質屋の格子戸の外に「心學講話、藤澤老先生經書御講義」などといふ札さへ見られた。昨日は曇天が燻《いぶし》銀の色調であつた。神戸から大阪までの平原の間に、枯草と青草との心臟を冷すやうに氣持のいい色の調和を見た。(四月二日、大阪圖書館にて。)

 

 昨日大阪へ來たらちやうど醫學會大會といふのがあつたから、こつそり忍び込んで此嚴肅な光景を眺めた。大澤老博士が、短い白髮の黒のフロツクコオトと云ふ扮裝で、三千の聽衆の前に現今の生理學の進歩を講演せられて居る所であつた。
 それからそこを出て復大阪の市街を歩いた。大阪|通《つう》の君が一緒に居たら、更に、視感以上の大阪に侵入することが出來て愉快であつたらう。
 大阪にはうち見る所一種類の階級しかない。と云ふと餘り誇張に流れるが、兎に角ここが町人の町であるとは普通の意味で云ふ事が出來る。だからして此町の店頭に浮世繪が似付かはしく、義太夫が今も尚此市の情緒生活に intime になるのだと思ふ。電車などに乘つても乘合は角帶の商人で無ければ、背廣の會社員である。人の話に、官吏なども大阪へ來ると往々商賣人に化《かは》つてしまふと云ふ事である。
 京都を歩いて居ると無用のものが多く、だだ廣《ぴろ》くて直《ぢ》きに可厭《いや》になるが、大阪に至つては街區のどの一角を仕切り取つても活溌な生活《ラ・ヰイ》の斷片を掴む事が出來るやうに感ぜられる。京都は――恰もそこの藝子《げいこ》舞子《まひこ》のやうに――偏へに他郷人の爲めに市《まち》の計《けい》を爲してゐるやうに見えるが、大阪は、また其一見不愛想な商人の如く、他《ひと》には構はないでひたすら自家の爲に働いて居るのである。だから千日前でも道頓堀でも、束京の淺草、京都の京極其他などに見られない一種の面白味がある。生活が手輕で實用的なのだ。たとへばその街區の數多き飮食店の如きも大阪見物の他郷人よりも同じ町の人の氣散じに便利に出來て居るやうに見える。且東京とは違つて遊樂の街區が略一箇所に集中してゐるからして、この市の鳥瞰は東京のやうに散漫でなくつて、一つの有機體《オルガニズム》としての大阪市の形態及び生理を味はしめる。
 燈が點いてから千日前の雜沓を、旅人の――他郷人の心持でなくこの市《まち》の一市民としての親しみを以て歩く事が出來た。そしてここの雜沓と、この褻雜《せつざつ》なる興行物がどんな必要《ネセシテ》を持つて居るかと云ふ事を知る事が出來た。
 汚い戲場と視官を刺すやうな色斑らな看板繪――大阪にはまだ淺草のやうに安いペンキ繪は入《はひ》つて居ない――三味線、太鼓及びクラリオネツト、かくて春日座の「兵營の夢」、第一大阪館の「河内次郎」、榮座の「住吉踊、稻荷山」、日本館の活動寫眞、常盤座の「忠臣藏宣傳」、女義太夫竹本春廣、其他釣魚、落語の類が人間の需要の反射として更に行人を誘惑して居るのである。
 短い時間で成る可く廣く大阪を見ようと云ふ欲望から、一刻も休まず歩き、出來るだけ興行物と云ふやうなものを覗いてみた。播重といふ寄席も、嘗つて君に話を聞いた事もあつたから一時間許り入つて見た。表の看板には「全國女太夫、修業發表機關」といふ今樣の云ひまはしの大文字が書き付けられてあつた。まだ顏の輪郭も固らない、世の中の事も碌に知らない十四五から十七八の女が、複雜な淨瑠璃の文句、またその内の藝術化せられた情緒情熱に關して深い理會のあるのでもなく、――差し迫つた何等かの藝とは全く別の必要からして――それでも愁嘆場の文句なんぞは多少の自覺した表情と、及び發聲の困難からの苦面《グリマツス》とで、同じく調子の合はぬ絃に伴はれて齒を剥き目をつぶるのを見るのは眞に可憐である。而して同時にこの生理的誇張が聽衆の特殊の興味《アンテレエ》を惹起すると云ふ事を知ると世の中の機關《からくり》に對して頗る樂天的な觀相を抱かしめられるのである。
 然し|首の習作《エテユド・デ・テエト》のモデルとして見る場合には又別種の面白味がある。ロダンの「|泣く女《ラ・プレエレエズ》」のやうな表情は罕《まれ》ならず遭遇する所である。若し夫れ皮肉なるドガアの畫題を搜し出すと云ふ事は既に予の領分外である。それはもつと深い透徹《ペネトラシオン》を要する。予は君の短篇《ノヱル》の類集《セリイ》に待たねばなるまい。
 此間に予は突然濁つた太い聲に驚かされたのである。「竹ちやん、竹ちやん、待つてましたあり――」といふ言葉が其瞬間に理會せられた。人はみな忽ち其方へ視線を轉じた。蓋し豫定喝采者の類であつたらう。餘りに年の寄つた銅色の顏の老爺が火鉢の縁を指先で撫でながら何も知らぬやうに俯《うつむ》いてゐた。其對照が既に滑稽以上であつたからして、轉じられた視線は豫期に反した弛緩の感じを以て再び舊に戻るやうに見えた。
 予は藝術を[#ここから横組み]△Illusion+△Connaissance[#ここで横組み終わり] といふものの極限《リミツト》として觀相しようと常々思つてゐるのである。舊《もと》の美學は唯藝術の假感の極限の場合をのみ論じて居るやうに見える。肉聲が織る曲節《メロデイ》、曲節の底を漂ふ肉聲――たとへば斯くの如き二つの軸の間を動搖する所に藝術鑑賞の心理作用が求められねばならぬ。或は此くの如きは完成せる――人を幻影の境に引いてゆく藝術を有せざる時代の人の思想ではないかと反問せられたなら予も亦返答に窮するであらう。藝術感及び實感の交錯は芝翫の八重垣姫、茜屋のお園の演伎の際、屡※[#二の字点、1-2-22]東京座や歌舞伎座の大入場の喧噪として現はれたものである。
 今の場合に於ても若し多少美しい女の太夫が、義太夫聲に雜《まじ》る實《じつ》の女の鼻がかる音聲で「これまで居たのがお身のあだ……」と云ひながら輕く右手の扇子で左の掌を打ち、膝の上に身を立たせるやうにして目を不定につぶりながら、何かを囘想するやうな表情《エキスプレシヨン》で滑なタンポオで唄ふと云ふやうな事があれば、多くの見物人は必ず其感動を拍手か意味のない呼び聲に現はすのであつた。何となれば此《ここ》は全く愼《つつしみ》といふ事から放たれて居た場所であつたから。若し一個の藝術的洞察者があるならばロダンの依つて名聲を博した所のものを又日本の材料から作り出す事が出來るのは勿論である。
 道頓堀へ出たら辨天座の前が大變賑かだつたから又はひつて見たくなつた。中々幕が開《あ》かなかつた。開《あ》いたら大阪の觀客に媚びる東京芝居の仕出しで一向つまらなかつたから直ぐそこから出た。
「まあまあ高麗屋が一でせうな。」
「左團次もようがつせ。」
「どつちとも云へまへんな。」
と云ふやうな會話を聞きながら――。ここの出方は紋付の縞の着物を着た女だつた。これらの女に使用せらるる大阪言葉は揮發的《フイユジテイフ》で、その語勢は油の流れるやうだつた。

 昨日午後道頓堀の通りを何か化粧品の廣告の囃が通つた。それが柳か何かの佐和利の節を鐘や太鼓でちんからころりとやつて行く所は、流石は大阪と大に感心した。萌葱《もえぎ》の短い前垂の女中が後ろを振り返つてそれを見入り、銕丹染《べにがらぞめ》の風呂敷の番頭はんも足を停め、茶屋の前で二三人の女中が手を組み合はせて眺める所は、宛然として浪華風俗畫卷の題目であつた。
 肩衣《かたぎぬ》を賣る店を市中で屡《よく》見出したが、その際予は未だ嘗つて知らなかつたところの「市中漫歩者の情調」に襲はれた。唯それ丈でも大阪は好《すき》である。況んや汽車に乘り合はせる人、煙草の火を借せる人が、みんな藝事《げいごと》の話の分らないのがないに於てをや。(四月二日、大阪圖書館にて。)

 

 今日の午過ぎ大阪の圖書館へ入つて見た。借りようと思つた本は皆、ちやうど特別の陳列の爲めに出てゐるので見られないのは遺憾であつた。それから「松の落葉」といふのも元祿の小唄を集めたのではなくて、例《いつ》もの藤井何とかいふ人の隨筆集であつた。
 後に無理に陳列室の内へ入れて貰つたら、手に觸るる事の出來ない玻璃の陳列棚の中に「浪華歳時鏡」「新板豐年拔參宮」「道頓堀出がはり姿なにはのみそ(?)いせのおしろい」「新町根里毛農姿番組」「なにはぶり」「浪華青樓志」「大阪新町細見圖」「淀川兩岸勝景圖會」「畫本四季の友」といふやうな風俗畫の畫本が並べられてあつた。かかる種類の本は、安永天明から天保の頃にかけて江戸には汗牛充棟も啻《ただ》ならざる程あるが、京阪には比較的少いやうである。元祿時分のは多少あるかも知れぬ。
 この暗い部屋の中で偶然上方の粹といふ言葉と江戸の意氣といふ言葉とに考へ付いて、前者が心理的なるに對して後者の著しく外形的(形態的)であると云ふ事に氣がついた。西鶴、近松の類と洒落本、草雙紙の類と比較して兩都のそのかみの文明を推論したならば面白い事だらう。(四月二日夜神戸行電車中。)

 

 昨日の午飯は兼ねて人に聞いて置いたから梅月とかいふ天麩羅屋で食つた。いつもなら純粹の大阪人をここに見られるさうであるが、今日は時が午より遙かに遲れて居たから「だす」「おます」の言葉で相場の噂も聞く事が出來なかつた。
 それからもう遲かつたが文樂へ行つて見た。君の印象記での覺えもあり、一年有半で讀んだ事もあり、何かしら大へんの所だと思つて居たが、あまり予の胸にはしつくりと來なかつた。はじめの「釋迦誕生會」などは近松の作だと云ふが愚なものである。實は予は東京では間に合はなかつたから印度王の原稿を今度一緒に持つて來たが比芝居を見て燒いてしまひたくなつた。然し二番目の攝津|大掾《だいじよう》の阿波鳴門の出語りは予に一種の「整復の音の感味」を味はしめたやうに思はれた。然し予のこの感じがどれ丈までトラヂシオンによつて來て居り、どれ丈まで自家の理會及び感情投入から來てゐるかは定かに云ふ事が出來ぬ。予は予の音樂の「耳」をあまり信頼して居ない。故に呂昇の壺坂を感心したのが本當に感心す可き所にしたのか、將た今また攝津の藝術にやや窮屈な壓迫を感じたのが予の耳の罪であるのかも分かつ事が出來ぬ。
 唯攝津の年齡と優雅なる其容貌及び絃の廣助の顏などが、予に一種のロマンチツクな崇敬の心をこの藝術家に對して抱かせたと云ふ事は事實である。眉毛の長い七十の翁の温藉なあの表情はそれまでの長い間の藝術的生活が刻んだものだと思ふ毎に一種のサンチマンタアルな情操の動くのを感ずるのであつた。この際予が爲した二つの首のスケツチは幸ひに隣席の客の賞讚を買ひ得た。
 予の隣の桝《ます》は東京の客だつた。一人は五十に近い、町家の主婦らしく、道徳的な而もやや意氣な顏付をしている女であつた。予はその人から大阪見物の感想を聞くことを得たが、大阪へ來ると自分はもう隱居しようと云ふ氣は全く無くなつて、人は死ぬまで働かなければならないと思ふやうになると云つて居たには妙な感じを抱かさせられた。意外な、處にも似付かはぬ、いやに道徳的な感想であるが、その連れの三十過ぎの同じく商人體の男がその註解をしてくれたので會得する事ができた。東京から大阪へ來ると東京の商業はまるで子供の惡戲《いたづら》だと云ふやうな氣がするといふ事から説き起して、大阪の人の時を愛《を》しみ、金を崇ぶ事を語り、(不幸にして折角の名を逸したが)或大阪の(恐らく日本一だらうと云はれてゐる)一老株屋の店の印象を語つた。予の今覺えて居る處は、そんな大きい店なのにも拘らず家は狹く汚く、主人も粗服だと云ふ事を賞讚したことである。東京では隨分大きい仲買所でも仕拂を多少づつ遲れさす、即ちそれ丈人の金を融通しておくのである。大阪に至つては厘錢の微もきちんきちんと始末し盡くすと云ふ事である。若し東京の人が大阪へ出て商賣するやうな時には極めて正直にしなければならぬ。少しでもずるい事があつたなら、その點には鷹のやうに鋭い眼を持つて居る大阪人は直ぐ觀破して決して相手にしない。而もさう云ふ事にかけての團體力は支那人のやうに強いからどうにもならないと云ふやうな事を語つてをつた。
「あれですからねえ」と前の棧敷に指さして、「御覽なさい。かう云ふ所へもああやつて家から瓶《びん》に入れて酒を持つて來るんです。そして火を取つて自分で暖めて飮むんです。貴方、あの座蒲團なんぞも風呂敷へ入れて家から運んで來たんですよ。」と云つた。
 予は、大阪の演藝類の見物の廉價であると云ふ事を以て之に應じた。現に文樂などでも、後ろの方は十二錢出せば一日聽いて居られるのである。又劇場には東京の如く一幕見といふものが無く、東京の大入場にあたる所がその代り十錢か十五錢である。
「大阪人はまた實にのんきなものですな。あんな所で一日幕合の長い芝居を不服もなく見物してゐるんですね。」とその男が云つた。
 其間舞臺では、強く誇張された人相を刻まれたので、其爲めに一方には頗る漫畫的に見えるが、同時に、巧みなる人形遣の爲めに隙間なく動かされるので、却つて其不安定な動的の表情が運動の眩惑を助ける所の人形が怒つたやうな顏で泣いて居た。
 何處の所だつたか、攝津が「お前と手分して尋ねようと思うて云々」と語ると、棧敷のそこここで忽ち多くの手※[#「巾+白」、第4水準2-8-83]《ハンカチ》が眼にあてられたのであつた。黄ろい貧血的の、やや老女に似る顏容の印象を呈してゐる絃の廣助までも、泣き顏になつて一生懸命に三味線をかぢくつて居た。予は此時近くの人の「廣助はんの絃ぢや到底追ひ付けまへんな」といふやうな批評を聞いて、本當にさうなのかなどと思ひながら例の Illusion と 〔De'sillusion〕 との世界を彷徨して居たが、唯予の前の棧敷に居た六七歳の男の子は、何と思つたか、ずつと背伸びをして、惘然《ばうぜん》と不可思議の眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》つて、かの未だ知らざる情緒海のあなたを眺め入るやうに見えた。
「アイ、笈摺《おひずり》もな、兩親《ふたおや》のある子やゆゑ兩方は茜《あかね》染……」の一段になつて、予も始めて、はつと幻想の世界に落ち込んだやうな心持がした。今迄概念的に味はつて居た十郎兵衞住家の悲劇も、兩親があるから笈摺の兩縁が茜染だといふ特殊の事實の描寫が、阿片のやうに瞬間的に予の自覺を濁らしたと見える。手づから本物に觸るやうな藝術的實感を味はふ事が出來たのである。それから「からげも解かず、笈摺も掛けたなり」と云ふ處で、また小さいシヨツクを感じた。再びありありと、勞れ切つた小さい順禮のむすめが眠るといふ有樣が想像せられたのである。
 折角の處だつたが時間の制限があるから外へ出たが、何か自分でも支配する事の出來ないやうな腹立たしさが湧いて居たのに氣が付いた。
 その夜神戸に歸つて床に就いた後に、久し振で聽官の幻覺に襲はれた。つひぞ、かういふ事は十四五歳の後には味はつた事が無かつたのに、暗く交睫《まどろ》みつつある心の表に突然三味線が鳴り出したり御詠歌が聞えたりするのを、半ば無意識に聞くといふ事は、然し兎に角愉快な事であつた。(四月三日京都にて。)

 

 急用が出來て今夜の急行で東京へ歸らねばならぬやうになつたのは尠からず殘念である。せめて今夜までの時間を京都で暮さうと思つて今朝この市《まち》に入つた。奈良、堺などはどうでも可いがもつと深く大阪を味はひたかつた。少くとも鴈治郎の藝を東京座の花道や猿之助との一座などでなく、大阪のあの舊式な劇場の空氣の中で見物したいものであつた。東京の芝居で見られない何者かをそこで搜しうるに相違ない。なんといつたつて上方の文明は三百年の江戸の都會教育よりずつと根柢が深いのであるから、大阪人は江戸東京人よりももつと人生といふことを知つてゐる筈だ、粹といふやうな言葉が江戸でなく上方で作られたのは偶然の事ではないだらう。
 京都へ入つては先づ第一に停車場で坊主にあつた事を異樣に感じた。そこから四條へ出るまでに眞鍮の蝋燭臺を賣る暗い店、大牛、河の柳、數多き旅館及び古風の橋などが視感を動かした。是等の景物に寺、塔、舞子のだらり及び人力車上の西洋婦人などを加へれば、略京都の情景を想像することが出來る。
 黒田清輝氏の「小督物語」は偶然路上に遭遇した人群から暗示を受けたといふが、僧侶、藝子及び舞子、嫖客、草刈の少女等は眞に京都的の 〔Ele'ments〕 である。而も其布局が昔の繪卷物の風俗畫を思はしめ、その思付が謠曲によくある物語の風(たとへば道成寺の前のシテの白拍子の後のシテなる――事實上は時間的に以前の――蛇を暗示するといふが如き)で直接歴史的風俗畫を避けて尚或情趣を添へるといふ點で更に意味あるものとしたのである。而も其純繪畫的觀相がまだ西洋臭いといふ對照があの繪をまた一層面白くしたのだと思ふ。
 今の京都の生活から、然し一枚の風俗畫を作り出さうとする場合には西洋人は缺く可からざる一要素であるといはねばならぬ。横濱神戸はさる事ながら、京都と異人とは、今はもう切つても切れない中となつたのである。
 三十三間堂の暗い中に數多き金色の觀音が立ち並んでゐる。天井の大きい燈籠がそこに定かならぬ光明の輪を畫いてゐる。『人皇は七十七代後白河天皇御建立、……千一體のうちに三萬三千三百三十三體の觀音樣が拜まれます』……と唄ふ案内の小僧のねむたい曲節《メロデイ》の中にも、色斑らな女異人の一行があまり似付かはしくもなく見えるのである。
 博物館で鎌倉から信長の時代へかけての色々の縁起物の繪卷物を見た。浮世繪に次いでは是等の風俗畫が大に予の心を喜ばしめる。如何なる時代でも平民の生活及びその藝術化ほど予の心を惹くものはない。
 大谷光瑞師の寄贈にかかるといふ、支那トルキスタン庫車内トングスバス發掘の塑像佛頭といふ土の首は予の心臟を破らむほどに美しかつた。(四月三日朝京都にて。)

 

 今、人と四條橋畔のレストオランに居る。都踊の始まるまでの時間を消す爲めに、一つには自ら動く勞なくして、向ふで動いて呉れる京都を觀る爲である。
 中には始めから二人の西洋人が居た。直ちに獨逸人であるといふ事のわかる重い發音で會話してゐる。それからその連れらしいのが二人來た。
 この背景としての窓の下の四條橋下の河原では、例のコバルト色に見える人の群が、ずらりと並べ干された友禪ムスリンを取込むのに忙殺せられて居る。
 面《おもて》の平でない玻璃《ガラス》の爲めに、水|淺葱《あさぎ》に金茶の模樣が陽炎を透かしての如くきらきらといかにも氣持よく見える。一列の布の上に、遙かに黒き、其輪郭は廣重的に正しい梅村(?)橋が横はつて居る。草はもう不愉快に日本的に黄ばんでるが、その側に、明紫灰色の小石の上に干された黄や紫や淺葱の模樣の幾列かの布との間に、一種の快き色彩の諧調を作り出して居る。河原の水際には澁紙で貼つた行李が二三箇積まれてある。そのそばで話しながら二三の人が仕事をして居る。或者は何かしらん齒車仕掛のものを頻りと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して居る。或者は黒いズボンのままで川へはひつて樺色の長い布を引摺出してくる。或者はまた懸け弔るした淺葱の友禪を外して二人で引張つては、それから互に相近づき、更に元より近く相離れ、更に復近づいて、かくて二つに疊まれたものは四つに、四つのものは八つに疊まれ十六に疊まれて石の上に置かれる。そして竿の間に張られた綱に隙間が生じて來ると川からの人が、更に色の變つたムスリンをだらりと弔るすのである。
 京都や大阪の町、及びそこの形態的生活は友禪的に色斑らに、ちやうど抱一が畫いた菊の花瓣のやうに綺麗である。然しここの生活だけは乳金、代赭《たいしや》、群青《ぐんじやう》の外にエメロオド、ロオズマツダア等を納れ得るのである。あの布を干す二三人の群を目の粗いカン※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]スに取つたら嘸《さぞ》愉快の事だらう。
 もとよりその外に祐信や清長の見方が出來る。祐信の繪本に、炬燵にあたつて居る女の傍に小鍋立のしてある繪があつた。門の外は降りつむ雪で、ちやうど男が傘をつぼめた所である――河沿ひの低い絃聲のする家の窓から河原の布晒を見るのは此の趣味であらう。然しかう云ふ事をかくと予自身に此|遊仙窟《ルパナアル》に對する憧憬があるやうに思はれて不利益である。“Olenti in fornice”はホラチウスの領分であるやうに「祇園册子」は吉井勇君の繩張である。
 目の下に見える四條の橋を紹介しよう。「鴻臺」といふ酒薦の銘が大形に向河岸の屋根を蔽うてゐる。そこに赤い旗があつて白く「豐竹呂昇」と染め拔いてある。まだ燈の點かぬ仁丹がものものしげに屋根の上に立つ。欄干の電燈の丸い笠は滑石《タルク》の光澤で紫色に淀んで居る。その下を兵隊が通る。自動車、人力、荷車、田舍娘の一群が通る。合乘に二人乘つた舞子の髷が見える。かみさんの人が下女を連れて芝居の番附を澤山に手に持つてゐるのが通る。二人の女に、各一人の男が日傘を翳《さ》しかけてやつてゐるのが通る。あれは祇園の家々の軒を「ものもお、ものもお」と紙を配りながら大聲で誰とかはんのお妹はんが云々と呼んでゆく人達であらう。青色の橋の欄干に女異人が二人立つ。もう少し日が暮れたなら正にヰツスラア情調中の人となる可きものであらう。
 京都の女の相貌は複合寫眞の美しさのやうに思はれる。深い刻みや、個人性が消えてぼつとした Morbidezza がお白いの下から覗く。
 ああ河岸に始めて燈が點いた。予等は之から歩かねばならぬ。
「おお、ねえさん、それぢや勘定!」(四月三日、京都にて。)

 

 二つ三つ妙な光景を見た。君は予が京都でピエエル・ロチイ的の見方をするのを喜ばぬかも知れないが、京都といふものの傳説から全く自由な予は、どうしてもかくの如き漫畫派的羅曼的に見ないわけにゆかぬ。たとへば都踊の中の茶の湯なんかは實に此の見方から愉快の場所だ。殊に異人が此滑稽のアクサンを強くしてくれる。
 僕等には到底我慢の出來ない七面倒くさい儀式で茶が立てられた。身なり、動作に對應せぬ童顏の小さい女達が茶を配るとき第一の大きな茶碗が最端の年とつた異人の前に置かれた。
 それに對した側には色斑らな上衣及びスカウトの西洋婦人の一群が好奇の目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]つて「チヤノユ」の珍妙の手續を見て居たが、今第一の茶が同邦人の前に配せられた時一齊に手を叩いた。老いたる異人は顏を赤めて快活に笑つた。
 兎に角女異人(その對照として黒の裝束の男達も可いが)と舞子の群は、その共にでこでこした濃厚の裝束で西班牙のスロアアガの畫もかくやと思はれる美しい畫面を形造るのである。それに蝋燭及び電燈の光が一種の雰圍氣を供給して居る。
 一人の慾張りなばあさんが近隣の二三の人から團子の模樣のついた素燒の菓子皿を貰ひ集めた。するとその近くの西洋人の一群が、自分のも皆んなそのばあさんにやらねばならぬと思つたと見えて、その方へ運びためたので、少時にしてばあさんの卓の上には十數個の皿や食ひ掛けの饅頭が集つて、堂内は忽ちどつと一齊に起る笑聲の海となつた。意味を解しない異人達は自からも赤い顏になつて笑つたのである。
 若し夫れ是等の雜沓中で、いやに通を振り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]す氣のきかない一大阪人を巧みに描寫したならば、確かに、膝栗毛以上のニユアンスの藝術を作り出す事が出來るだらう。この餘りに粹でも意氣でも無かつた大阪人は、大都會の人といふ自慢と、恣なる言行とで、屡多くの人の反感と嘲笑とを招いて居つた。たとへば、茶の湯の法式に通じて居るとも見えない彼は、この雜然たる群集及び小さい茶を配る女達から「禮式」を要求しようと欲するが如くであつた。そして大聲で罵つた。膝栗毛は方言及び細かな動作の觀察がある故、今に貴いと思ふ。
「京都に於ける大阪人」は、蓋し作者の精緻なる理解、微妙なる關係を捕捉する機巧及び Sens pour nuance(Taine の標準)に向つての好試金石であると思ふ。僕等はあまり多い粗削《あらけづ》りの藝術に倦きて居る。もつと仕上|鉋《かんな》のかかつたものが欲しいのである。予が所謂自然派の作品のうちで徳田秋聲氏を尤も好むのも此純藝術家的の見地からである。
 都踊と云ふものはもとより一向下らないものであつた。ああいふ數でこなす藝術は目と耳とを勞《つか》らせるだけで土産話の種より外には役立たぬ。板を叩くやうな三味線とチヤンチャンなる鐘、それに「ハアハ」とか「ヨオイイ」などといふ器械的の下方の拍子の間に、間のびの「つうきいかあげえの……傾く方は……」つて云ふやうな悠長な歌で體操するのであるから面白くないに極まつて居るのである。(四月三日夜半、汽車中。)

 

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